宗教関係サルベージ(顕現)

光のマリア (20050705)

はてなの質問
? 神奈川県内で宇宙人と交信するのに良い場所を教えて下さい。
 できれば経験者の方の回答がうれしいです。
 http://www.hatena.ne.jp/1120459257

 この質問、おそらくは「おふざけ」(ネタ)でしょう。質問者の方の履歴から判断しますと。(一部略)
 ただこの「おふざけ」のおかげで一つ面白いものを思い出しました。
 以下はスペインの異端審問裁判所(Inquisition)に残される記録からの引用のまとめ(ただし英訳資料)です。

Jaen, 1430
 証言者はカスティリアの街Jaenに住む羊飼いの息子であるPedroと友人のJuan、羊飼いの妻のMaria SanchezとJuana Fernandezである。彼らは別々の場所で同じものを目撃している。


 1430年の6月10日の深夜、San Ildefonsoの教会の近くで、彼らは相次いで光の行列を外の街路に見た。まず、おもての強い光で家の中が昼のように照らされ、多くの犬が吠えるのが聞かれた。何事かと彼らはあるいはドアを開け、あるいは窓から外を覗いた。そこには光あふれる一人の女性を中心とした行進があった。


 まず五つ(あるいは七つ)の十字架が進み、その後、周りの者より遥かに背の高い女性が続いた。この女性は白い服に身を包み、長い裾を引きずった白いマントを着、右手には一歳ぐらいの赤子を抱いていた。頭には何か白いもの(冠かオーラ)が見られ、全身が陽の光のようにまぶしく(まるで銀の聖像であるかのように)輝いていた。


 その後には十人の司祭達が祈りながら歩いて続いたが、そのしゃべる言葉は一言もわからなかった。さらにそのうしろから、百人ほどの白い服を着た兵士達が進んだ。武器をがちゃがちゃさせ、槍を持っているようであった。その後、かの女性を中心に人々は座り、(この世のものとは思われぬ)歌を歌い始めた。何を歌っているのか、その言葉もわからなかった。



・この話は四人の証言を総合した結果得られた。四人は証言の前に口裏を合わせたことはない。
・彼らの証言は概ね一致しているが、微妙な食い違いも見られる。最も大きな違いは、目撃者のうちMariaのみが背の高い女性を聖母マリアであると認識し、また彼女のみがその女性の脇に聖イルデフォンソを見ているというところにある。


・彼らは行進を見たときの感情を、歓びに満ちたものだったと証言したが、同時に恐ろしさも感じていた。
 Pedroはその歓びについて次のように語っている。この地方では夜になると、城郭の外のすべての人々はムーア人を怖がる。彼が行進の人々、十字架を見たときに感じたのは安心である。それは、この人達がムーア人から安全ならば、皆安全なはずだという気持ちであった。だが彼はまた、行列の後ろの兵士達を見たときに恐れと不安が湧いてきたとも言っている。


 この「光のマリア」のJaenの事例は、以下の書籍p.40以下のものをまとめました。
 William A. Christian, Jr., "APPARITIONS in Late Medieval and Renaissance Spain", Princeton University Press, 1981.

Introductionより
 本書は15世紀のカスティリヤ地方とカタロニア地方の人々の心の中にあるイメージの世界を探求するものである。この目的のため、本書は一連の、普通の人々、子供、農夫、羊飼いの妻達、下僕達の天国の(神的な)ヴィジョンの逐語的な報告からなる。それらもまた、彼らが見聞きしたもので、詩人のように、言葉によって、イメージの世界を表そうとするものである。時にそれらは公の神聖劇の特徴のようであり、その記述は絵画や彫刻の基礎を形作る。そのヴィジョンから何かでっち上げるとか説明するとか言うよりも、私はそれらからいかに人々が、知っている世界と想像しなければならなかった世界の双方を経験したかを学ぼうとしたのである。これらは、その二つが交差した特異な時点であり、マリアと聖者達が彼らとともにいた時点なのである。(私訳)

 Apparitionとは(幻影、霊などの)「出現・顕現」のことを言います。この書籍では、スペインの1399年以降の(公的に証された)apparition、つまりクリスチャンと聖なる存在(神、精霊、聖母マリア等々)との出会いの記録が取り扱われています。Inquisitionや教会などに文書として記録が残されたもののみを対象とし、極私的なものは範囲外とされています。修道士や修道女の啓示は個人的価値に限定されると筆者が考えたからです。
 その地方社会的にapparitionと公的に認められた聖なるものとの出会い(一次的な直接知覚的接触を伴ったもの)の証言は、その地方の古い忘れられたような聖堂の再建・新たな聖堂の創建につながることがしばしばです。それは、神の恩寵・慰めの特別の源泉として「その場所」や「聖像」が聖化され、敬虔なカトリックの信仰復興が起きるからです。(これは不信仰状況への揺り戻しでもあります)
 またそこで、現実の差し迫った破滅に対抗するためのクリティカルな指示が与えられた場合には、政治的な運動が起きたりもしますし、その場所への巡礼が開始されたりもします。
 この書籍では、いわゆる「客観的に何が起きたのか」という探求は行われていません。あくまでも当時の人にとっての意味を考えようとされているのです。

Mary of Light with Matins Processions (20050706)

 前の事例とよく似た「光のマリア」が出てくるもの。ほぼ同時代、同じカスティリアの事例から…。

Santa Gadea (Burgos), 1399

 目撃者は羊飼いの息子、PedroとJuan。舞台はカスティリア、BurgosのSanta Gadea del Cidの街近く。1399年3月25日火曜日、PedroとJuanは羊を世話しているうちに蜜蜂の巣がある木を見つけた。その晩遅く、彼らは蜜と蝋を集めるためにその場所に戻り、そこで一人の輝く女性と行列を見た。白い服を着た人々が大きなサンザシの木の周りに集っていた。そしてその木の頂に、太陽よりも明るく光り輝く女性が一人立っていた。彼らはその光景を理解することができず、逃げ帰った。


 3月27日木曜、再びそこに行ったPedroだけがその女性(聖処女マリア)と再び出会う。彼女は前回のヴィジョンを解き明かし、彼に町のための「指示」を授ける。それは次のようなものであった。

 スペインの崩壊の日、Montanana la Yarmaという町があり、そこに私(マリア)の名で呼ばれる教会があった。異教徒たちの猛攻撃から、その共同墓地にその町の難民達はシェルターを使うことを余儀なくされていた。教会と共同墓地の中で彼らは敵に囲まれ銃火に包まれていた。そして彼らは改宗を肯んじなかったため全てが殉教することになり、輝ける殉教の血の中にすべてはまみれてしまった。(中略)この地が聖なる場であり、殉教によってここに死んでしまった遺体の多くの聖遺物がある場所であることを(街の皆に)説明することを命ずる。また、この秘密の記憶を再び呼び起こすために、聖ベネディクト修道会の修道院と教会が建てられるべきであるとするのが、我が栄光に満ちた息子の意志であるという事を告げることも命ずる。(中略)私のこのサンザシの木のもとへの顕現の記念に、私の顕現の記述を持つ者は誰でも悪魔の力から自由になるようにしよう。そして悪魔は私の紋章を見たときにその者を害することができないようになるのだ。

 だが怯えたPedroは、街の人たちにマリアのメッセージを伝えることはせずに黙っていた。


 そして3月30日日曜日、イースターの日の夜、Pedroの家にマリアが修道僧たちと現れ、彼女のメッセージを送らなかったとPedroを打ち倒した。
 Pedroの叫び声に近隣の者たちが目を覚まし、彼の家に駆けつけた。人びとが見たPedroの家は昼のように明るかったが、部屋に駆け上がったときはもとのように暗くなっていた。多くの鞭の痕をその体(ミミズばれと傷)と部屋の床に付け、Pedroはショック状態であったが、彼の親たちは何も知らなかった。


 Pedroは街の人々に集会を開催することを懇願し、そこで彼は自分の見た話を語った。数年後そのマリアが現れた場所に修道院が建てられた。そして特にその顕現の日を目指して巡礼達がやってきた。この顕現の最も古い現存の公式文書は1471年以降に作られたものである。

語られる意味

 初めに現れた白い服を着た人々は天国の天使達であり、太陽よりも明るく光り輝く女性は聖処女マリアだったと認められることになりました。でもここで目撃者の方に目を向けても面白いことがわかります。目撃者の名前が、あのJaenのケースと同じなのです(こちらの事例が先行していますが)。
 そう、この話にはペテロ(Pedro)とヨハネ(Juan)が登場し、ちょうど(キリストの復活へ続く)聖なる週間がなぞられていると捉えることができるのです(→エピファニーの拒絶とそれに続く受容)。この種の変容させられた「まねび」は、多く初期の聖堂伝説に見出されるものです。


 スペイン中世のこうしたドラマの中心、発見される聖像のモティーフ等々は、キリストではなくマリアなのでした。(15世紀、西ヨーロッパから来る巡礼達にもマリア崇拝が生きていました)


 マリア自身が(そして彼女のみが)顕現するこの種の話は、聖書上のパターンのマリア化(the Marianization of biblical patterns)の一つの証拠だと筆者のWilliam Christian Jr.は言います。
(一部省略)
 燃え上がる茂みとしてのサンザシの花(最も早く花咲く木)のシンボリズムと、マリアの顕現の中世的伝説のパターンとしての聖書の物語は隣国フランスで一般的であったものです。そしておそらくこの14世紀末以降、そのシンボリズムやマリアとの結びつきが、こうした顕現の話を通じてスペインにも受容されたと考えることもできるでしょう。
 またこの話の当時、この地は実際にイスラム勢力に脅かされてはいませんでしたが、人々は顕現の起きたような廃墟と化した教会などに潜む山賊に悩まされていました。また、現に疫病にも苦しんでいたのです。マリアの顕現はこれらの脅威に対抗する力への希求に向けられていました。サンザシは病を癒し、顕現のエピソードは人びとを悪魔から守るものとなったのです。


 さて、Montanana la Yarmaという村が果たして本当にムーア人に制圧されていたか否かはわかりませんが、このような話はサンタ・グデアの人々に、明確に物理的・精神的に指示対象を持ったものだったと思われます。もし悪魔が敵としてのムーア人の表象だったとしたら、彼らは現実には遠く追いやられてしまっていました。しかし、ムーア人達は歴史的「他者」として残存していたのではないでしょうか?そしてそれはおそらく現実の敵と同様の意味を持ちます。なぜなら、1492年までカスティリア全土から周期的に人々は南へ戦いに駆り出されていたからです。またサンタ・グデアの町自身、カスティリアで最も有名な戦士の名を冠して呼ばれるようにもなっています。それはあのEl Cidだったのです。
(以下一部略)

顕現の背景と守護聖人 (20050707)

appalitions

 「顕現」と言われるものにはおよそ三通りのタイプがあります。
 最も正統的とされるものは、一人ないし数人の目撃者の前に神的存在が肉身で現れるというもので、その現れた存在が目撃者に語りかけ、触れ、ともに歩き、ときに証のものを残します。フランスのLourde(1858)やポルトガルFatima(1917)の顕現もそうしたものでした。
 次に、諸感覚に別個に確かめられるサインが現れるものがあります。これは16〜18世紀のスペインに特に多いのですが、今世紀に入っても時々ニュースになります。これはたとえば雲に聖人達のグループが見られるとか何かに触られる、聞かれるなどのエピソードで語られるもので、聖像のすすり泣きが聞こえる、それが汗をかくなどというものもこのタイプに入ります。聖像が出血するという例はつい数日前にもテレビで話題になっていましたし(イタリア南部の村で「ピオ神父」の像が目や手から出血)、秋田県添川湯沢台の聖体奉仕会のマリア像は涙を流すことで知られています。
 そして最後に聖像や絵画が発見されるというタイプがあります。これは往々にしてサインを伴う証拠・証言者を含み、ちょうど日本の寺社の縁起によくある形と似たタイプと言えます。

カスティリアの顕現の背景

 ここでカスティリアでの顕現の背景を考えてみましょう。
 8世紀、アフリカからのムスリム勢力は急速にイベリア半島を征服していきました。しかし侵攻が止められたところからその後700年にわたり、カスティリア、ナヴァール、アラゴンキリスト教諸王国は徐々に半島の支配権を回復していきました。そして1400年までにはグラナダ王国のみがムスリムの支配を受けるところまで回復していたのです。


 これらのキリスト教諸王国は力と富を12から13世紀にかけて蓄えましたが、王国自体は国の北部と中央を押さえたごく少数の貴族の家系に支配されていました。他の富と権威の中心はセゴビアのような諸都市にあり、その都市の支配権の下、無数のそれを取り巻く村々があるという形です。そこにはトレドのような豊かな教会基本財産を持った司教区もあり、ガダルーペのような広大な領地と多くの羊の群を持った修道院がいくつかありました。
 羊毛はカスティリアの主要な輸出品で、15世紀には全土に毛織物生産地が広がり、「顕現」が起こったどの町や村々にも羊、羊飼い、けば立て職人、機織りがいました。


 カスティリヤの居住地のタイプはほぼ現在の通り町や村の中心に家々が集まるもので、通常10軒から60軒程度の集落規模でしたが、ニューカスティリアの平野やタグス川の南ではやや大きく、時に500-1000名を抱えるちょっとした都市サイズの村々があったそうです。

 トレド、セゴビア、キュエンカなどは司教座の管区の中心で、数万の人口と産業を持つ中央カスティリアでの最大級の街でした。それらを取り巻く小さな村々の多くは、衣類の生産あるいは皮なめしや運送業に特化していたそうです。そしていくつかの地方の町は、法廷、役所、公文書保管所、そしてその地を治める一家が支える修道院を備えた封建領主のファミリーのための中心地となっていました。これら小さな商業中心地は、およそ1万前後の人口を持っていました。(16世紀はじめにいくつかの非正統的宗教が育ったのは、こうした類の小都市(エスカローナやパストラナ等々)で、そこには軍事拠点もありました)


 村々は普通教区と重なり合っていました。そのうちのいくつかには複数の僧職(clergy)がいて、その他の所は離れた町に住む司祭に名義だけ管理され、代理人が置かれていました。一般に北へ行くほど僧職者の人口比率が高かったそうです。

 一般の信徒の宗教的実践は、William Christian Jr.によると次のようなものでした

 クゥインタナール・デ・ラ・オーデンの、けば立て職人の一人の妻の例からそれを見てみると次のようになる。彼女は天気や育児によほどのことがない限りミサに出席した。また、四旬節の半分の日々、ウェルギリウスの祭日、テンポラ(四季の始まり)の数日に断食した。彼女は告解し、年に一度は聖餐を受けた。そして三つの祈祷文をよくそらんじていた。アヴェ・マリアの祈り、主の祈り、彼女自身の就寝時の祈りである。

 当時のキリスト教界の他の地域と同じように、イベリア半島の村や町も彼らの特別の場所、時間、そして聖者とふれ合う特別の技術を持っていました。それぞれの村や町は常日頃助けを御願いする特定の幾人かの聖者を持っていたのです。
 この聖者の組合わせは、その地方の共同体の守護聖人と、専門にある御願いをかなえると広く信じられている聖者の組み合わせでした。しかしその(機能神的な)専門の聖者も、地域ごとに独特のパンテオンがあり、そこから選ばれていました。
 守護聖人の聖像や遺体、聖遺物は聖堂や教会、修道院に納められていましたが、地方の聖堂の設置場所にはある特色があったそうで、それらは聖なる泉のそば、古城の跡、廃墟になった町の聖堂教会、あるいは川の浅瀬などに特に多いのです。


 聖マリアは守護聖人として最も重要な存在で、ヨーロッパにおいては12-3世紀にその聖像の使用が拡がり、だんだん他の殉教者や隠者、聖なる司教の遺体、聖遺物のある癒しの大聖堂のなどのかつて持っていた人気を一人占めするようになっていきました。またそれに伴い、マリアの聖堂は大聖堂や修道院から地方の礼拝堂へと広がり、そこが宗教的祈りの実践の中心地となっていったのです。


 共同体がその聖者と会うのはほとんどが何らかの危機の時です。しかしその危機の時のつながりは、毎年の暦的信心・祈祷へとしばしば変容します。たとえば町が蝗の接近を怖れるとき、町の人がある聖者に祈り、その「しるし(験)」があったとされればその日が「その聖者の日」になるのです。そうした「聖者の日」には、町の行政によって通常は公会堂で厳粛に祈りが行われ、そしてしばしば公証人によって儀礼の記録が残されました。それによれば、聖者ための行進の行列に家人を出さなかった戸主、あるいは当日働いた者には具体的な罰が与えられています。村人達は教皇庁や教区から命じられた聖祝日に振り替えてでも、ともかくその日を遵守していたのだそうです。
 聖者と村の関係は、世俗の領主との契約と異なった明白で契約的な義務関係でした。人々は労働時間を犠牲にし、贈り物を贈ります。また食事に関する宗教的取り決め、聖人の日、聖人に助けられた日やウェルギリウスの祭日での断食や公的祭での食肉(caridades)がありました。


 「顕現」は新しい聖者をこのシステムに組み込んだり、あるいは古い聖者への信心が復活する一つの道でした。共同体のパンテオンは流動的だったのです。人々はある意味「試行錯誤」して信仰を変えていったようです。
 村人達にとって、共同体と聖者はお互いに意志を通じ合おうとするものでした。規則に従った祈願の組み合わせや、普通ではない出来事、時間と場所の油断のない観察で、村人は継続的に彼らの天上の擁護者を見分け、聖なる存在と彼らなりに接触したのです。実際、絶え間のない疫病や不作に苦しめられ続けていた共同体にとってこうしたことは死活問題だったと言えるでしょう。

Anthony of Padua, Navas de Zarzuela (Segovia), 1455

 Navas de Zarzuelaという町はNavas de San Antonioという名でも知られるように、昔から聖アントニオの信仰があり、その顕現した聖堂で有名です。聖アントニオが現れたのは1455年ですが、現在その地に立っている聖堂は16世紀に建てられたもので、町の人々の同志組合(brotherhood)によって今なお管理されています。

 この「顕現」は1455年8月4日金曜日に宣誓した証言として書き留められている。


 目撃者は、この町の市民であり布織り職人であるLuis Gonzalezの息子Juanである。ある日Juanは村の教会へ行き、一人の修道士に声をかけられた。その修道士の言葉は次のようなものであった
 「坊やこちらへおいで。町の人々に、Segoviaへ行く街道がMonte de Sanchoと交差するyglesuelaに教会を建てるように言いなさい。」
 そして修道士はJuanの目の前から消えた。


 その後、同年同月の16日にまた修道士が現れ「教会と同志組合(brotherhood)を作るよう」に言った。さらに別の日、Juanが父親に言われてEnzinarの牧場へロバを連れていくときロバを見失い、それを探しているときにまた修道士が現れた。
 Juanは、今までも友人や父親にその事を言ってきたのだが、幻を見たとか嘘をついているとか言われ、誰も信じてくれないのだと言い訳をした。修道士は自分こそが聖アントニオであり、自分の教会を建て、同志組合を作るように重ねて要求した。


 Juanが父の所へ行きまた同じ話をすると今度は父親も信じてくれた。二人が町の人にこの話をしようとやってくるところで、彼らは一人の女房の埋葬を手伝うように言われる。そして彼らが十字架をもって葬列と合流した瞬間に、その女は生き返った。Juanの父はこの奇跡に際し、皆に聖アントニオの話をし、皆はこの奇跡による証を受け入れ、少年が示した聖アントニオの要求する地に教会を建てたのであった。



・聖アントニオの聖堂はスペイン各地にあるが、いずれも街道沿い、それも季節ごとの家畜(特に羊)の遊牧地の移動の際に通られる道のすぐそばにある。いくつかの場所で聖アントニオは動物の守護聖人として知られるが、これら諸聖堂も明らかに羊の(現在は乳牛の)守りとして、そして迷子の動物探しのためにある。


・Paduaの聖アントニオは通常ロバとともに描かれるが、これは秘蹟の際のキリストの臨在を信じなかった男が、自分のロバが聖アントニオに跪いたことによって回心したという話に基づく。このSegoviaの話でも少年が探していたのはロバだったのである。


・Guadalupeのマリアの伝説においても、この顕現の話と同じように埋葬のための葬列における蘇りというドラマティックな筋立てがある。

カトリックへの神的顕現 (20050708)

 William Christian Jr.によれば、およそクリスチャンのヴィジョンには中世以来四つほどの種類が考えられています。実は私がその中で一番目を開かされたのは、煉獄の魂や幽霊のヴィジョンというものでした。


 それは、この世に思いを残して亡くなった方が現世の者に何かを伝えるために現れるもので、この「霊的メッセージ」はまさに日本の一般の霊(現象)の捉え方と重なるものではないかとびっくりしたのです。言われてみれば海外の映画、ドラマの類でもGhostが普通に出てきて、筋立てに何の違和感もなく見ているわけですから当たり前といえばそうですが、たとえばヨーロッパの宗教などと構えて考える場合に案外こうした見方を忘れてしまっていたわけです。また私はクリスチャンではなく、やはりそこにオリエンタリズムの裏返しのようなエキゾチシズムを感じていたのかもしれません。
 煉獄の魂や幽霊のヴィジョンは、亡くなった人が天国への通路を開いてもらいたがっているとか、財産の分散を嘆くものとして近親者に解釈されたりします。そしてそのメッセージにこたえて、記念のミサなどを行わねばならないと考えられもするのです。(中世の神学者は魂が見える形態で地上を訪れることができることを認めていましたし、これらの魂はそれほど悪いものとは見なされていませんでした)
 また別の文献で読んだ話ですが、スペインの街道沿いにはところどころに小祠が立っているということで、それはその場所で交通事故死した方のために建てられているとのこと。これはほとんど日本のお地蔵さんなどと一緒ではないかと思えます。確かに煉獄を考えないプロテスタントの方々ではまた少しく話が違ってくるのかもしれませんが、私はどちらかというとそれこそ一般の人々の願いや思いというものに差はないんだなと考えるようになっています。


 さて先に触れたヴィジョンの四つほどの種類を簡単に申しますと、一つは「主要な聖堂におけるヴィジョン」であり、最も個人的といえる「癒し」などの奇跡に関わるものです。次に、上で述べた「煉獄の魂や幽霊のヴィジョン」です。これは近親者にのみ重要な意味を持つと言えるでしょう。その次は「宗教的階層の構成員のヴィジョン」が挙げられます。もともとこれは沙漠の孤独な修道者などが見たヴィジョンを教会の構成員が共有し、さらにそれが一般の信者に伝えられ影響するという流れを持っていましたが、後には修道女や修道士の体験がそのまま始まりになります。そして最後に(終末論的なものも含む)「神学的ヴィジョン」とされるものがあります。これはヴィジョンの解釈が一般信者の生き方に強く影響するもので、あの光のマリアのように信者が体験するものもあります。何か切迫した罰の警告を伴い、黙示録的状況がパラレルに考えられるようなものです。


 神学的ヴィジョンとしては、フランスでは有名なLa Salette(1846)およびLourde(1858)などの顕現がありましたし、ポルトガルでもFatima(1917)の顕現が世界的に名高いものとしてあります。またスペインでもそれほど世界的に名が知られているわけではありませんが、20世紀に入って以来多くの(主にマリアの)顕現があります。これらの顕現は、特に20世紀に入って以降、世の終わりの警告や世界的悔い改めを要求するなどグローバルな状況に応じた内容になってきています。


 一連の話の最後に、Christian Jr.が紹介するカタロニアの伝説について引きましょう。この伝説の記録を残してくれたのはドミニコ会修道士、Narciso Camosです。彼はカタロニアの全ての主要なマリア聖堂を訪れ、起源説話を記録していました (調査時期1651〜1653)。

カタロニアのマリア聖堂に残る伝説の記録


・182の聖堂のうち45には伝説が残されていなかった。


・伝説のタイプのうち最も多いのは「マリア聖像の発見」(117)であり、「発見なしの顕現」(14)がそれにつぎ、発見と顕現の双方が伝えられる「複合型」(6)も存在した。


・基本的に次のようなパターンが多い。雄のその地方の動物(ふつう雄牛)が仲介役となって、牧夫を「野生」の場所(地中、洞窟の中、木や野生の植物の中、泉の中)の聖像に気づかせる。人々は聖像を聖堂に納めるが、それはもとの場所に還ってしまう。そして礼拝堂がその場に建てられる。


・伝説における発見者の大部分は大人の男性の牧夫であり、女性はほとんどいない


・発見される母子像…人間の体自身の中の自然の創造力のシンボル…は、自然の中の他の世界への入り口に位置している。


・聖堂の聖像…愛・祈り・約束・贈り物といった人間のエネルギーと恩寵や奇跡といった形での自然や神のエネルギーを取り持ち交換させるもの…は「野生」の世界の中の外部の力への祈願や取りなしのために必然的な場所において発見される。


・仲介役の動物は、半ば飼い慣らされ半ば野生の(文化の中の自然の一部的)存在である。


・発見された聖像は「自然=野生」のものであり、聖遺物などの「文化的」なものと違い、町の中に留まらない。それは自ら帰還し「聖なる場所」をあらわにする。(→キリスト教の部分的異教化を意味する?)

 カモスが収集したこれら伝説13世紀から15世紀に成立したと考えられています。ちょうど光のマリアの顕現と時期的に重なります。
 伝説においては、「聖像」が地方社会と自然の力を仲介しています。ここでの自然の力とは、一つには「天候、虫害、病気に関わるもの」であり、またもう一つには「現世の背後の生と死を司るような世界」として表象されるものです。また仲介(仲立ち)とは、人々の思いや願いに対して恩寵や奇跡を与える契機になるということです。


 自然の中でも、木や山の頂きは特別な意味を持ちます。それは地上世界を天空へ結びつける場所として捉えられるのです。また洞窟や泉は、同様に地上世界を地下へ結びゆくところです。こうしたところで聖像が発見されることになるのは、人々がそこに異界との交流という意味を読み込むからに他ならないでしょう。
 また仲介役とされる牡牛の伝統的シンボリズムは、地母神信仰に関わり、文化と自然を取り次ぐものです。この両義性は、実は「牧夫」自身にも考えられるものでもあります。この仲介者に「女」性が少ないことについて、Christian Jr.は「文化と自然の変容に働くのは雌性(female)だから」と述べていますが、ここについては私はちょっと納得していません(単に私の理解が足りないせいかもしれませんが…)。考える余地はありそうです。
 ただ彼がさらりと「キリスト教の部分的異教化」とまで突っ込んで言っているところには大きく頷きます。マリアの聖像の地中での出現の多さは、聖マリアの受容というものに「豊穣に関わる地母神」との連続性があるということを自ずから語っていると思えるからです。(産むものとしての同一性。シンボリカルな結びつき)


 William Christian Jr.は次のように述べます

 「複合型」のエピソードは聖像の発見を伴うが故にどちらかというと「伝説的」である。
 このタイプの存在は、カスティリア及びカタロニアの「顕現」が、伝説と同じ目的を持ったものであることを示唆している。つまり「顕現」は村と自然の世界を取り持つ契約書であり、その目撃者は人々をその神に、その聖なる場所に、その聖なる時間に導く特権的な仲介者なのである。

 やがてスペインでも1600年頃を境に顕現やヴィジョンの話がほとんど新たに出てこなくなります。異端審問が激しく人々を抑えつける時代が来たからです。私は「正統」な教義が人々の創造性を抑圧してしまうのが、ほとんど悲劇と見えてなりません。そこに悪意があるわけではないのですが…。

 本書は15世紀のカスティリヤ地方とカタロニア地方の人々の心の中にあるイメージの世界を探求するものである。…いかに人々が、知っている世界と想像しなければならなかった世界の双方を経験したか、ということを学ぼうとしたものである。これらの事例が存在した時代は、その二つが交差した特異な時点であり、マリアと聖者達が彼らとともにいた時点なのである