きっかけ

 たいていの場合何かのファンになる、何かが気になってくるような時、その始まり=きっかけにはあまり意味がありません。むしろ何かに自分の喜怒哀楽が結びつけられているのを「後から」自分で意識するようになって、その時にきっかけが(遡及的に)思われることが多いのではないかと思います。
 スポーツ関係のファンの在り方ではもちろん「地元性」というか地縁のようなもの、周囲や家族、友人の多くがそのファンだったから自分も…ということは多いかもしれませんがこの場合もそのきっかけに大きな意味はないでしょう。地縁がなくてもたまたま、という人も多くいます。


 何ものかに感情移入してしまう⇒喜怒哀楽⇒もっと感情移入してしまう⇒もっと喜怒哀楽⇒…


 こういうサイクルにいつの間にか巻き込まれていて、訳がわからないままに熱を上げるといった具合になるのが普通で、たまに地縁がないファンの人が「自分の起源神話」を持っていたりもするのですが*1、傍から見ると本当にそんな理由で?という感じに聞こえる場合がしばしばです。


 実はこの形は恋愛にも通じるとずっと思っていました。
 別にきっかけはそれほど大したことでもなく、何となく気になってそちらに注意が向けられるようになるうちに、感情が動くことが一層の感情の動きを生み出し、妙なサイクルに自分で自分を巻き込んで増幅することになる。少なくとも自分の場合はこうしたケースがほとんどだったような気がします。
 きっかけはあまり大きな意味を持たないのです。でもかなりお熱を上げるような状態になってみれば、何かそこに首尾が欲しくなるといいますかストーリーがあって欲しいと思うようになります。そこで遡って「自分から見ればちょっと劇的な」起源が後から構成され、それがいつの間にか本当にきっかけだったように思い込んでしまったり…。
 夫婦が語る「馴れ初め」とかもそういうのが多いのではないでしょうか。まああれは結婚式なんかで司会が構成する(でっちあげる)ものでもありますね。考えてみるとむしろ周囲が、誰かの何かとの関係性を理解するために首尾一貫したストーリーを求めてしまう場合も少なからずあるわけで、作られた起源神話のある程度の部分はこうした傍からの要請で語るために用意されたものなのかもしれません。


 そしてこうした構成は「信仰」の場面にもあるものだとあとで気付きました。クリスチャンの方などはよく「どうして信者になられたのですか?」と聞かれるそうです。(仏教徒を名乗っていると滅多に聞かれませんが 笑)
 何かそこに「奇跡譚」だとか目が覚めるような「宗教体験」だとかがあって、それで回心が起きてその信者になったとかいうストーリーで周囲は理解したくなるようです。相手がマイナーな宗教だと偏見で見られる場合はなおさら。
 確かに「教祖の宗教体験」の話とか、病気直しの「おかげ話」とか、宗教関係周辺にはそういうストーリーが多くそこらへんに転がっていたりはするのですが、正直な話、新宗教関係の知り合いの多くでも「親(家)が信心してたから」ぐらいのことしかなかったり、かなり信仰が厚いように見える人でも「何となく」といった具合に理由を持っていない人が結構いたりするのです。


 よく考えてみるとこれも当たり前ですね。きっかけが重要なわけでは(本当は)ないのでしょう。
 ファンという立場を自覚したり、恋愛関係に入ったり、信者となったり、むしろそうなってから「自分が何をするか」がそこで自分にとって問題となってくる。対象との関わりの中で自分の行為に自覚的になってくる。自分の意味世界がそこで組み直されて、すべてのものとの対し方が問い直されてくる…。そういうことだと思います。


 ファンになった。恋人になった。信者になった…というのは始まりです。本人にとって「なぜそうなったか」という話でストーリーは完結するものではありません。そこから自分のストーリーがスタートするんですね。
 それにしてもどうして他者の「過去」=きっかけ話が気になってしまうのでしょうか? 今どうあるか、今後どうするのかの方がよほど聞くべき事柄だと思えるんですがね…。

*1:知人の中では「クラウンから球団を買って、鳴り物入りでデビューしたのに開幕12連敗でかわいそうになって」(某ライオンズ)という人や「ロッド・スチュワートの"Sailing"に涙したから」(某浦和)という人がいました。