クリアリー神父の話

 昨日視聴した"The Father, the Son & the Housekeeper"は、思った以上にクリアリー神父(と息子のロス君)などの個人的な側面に焦点をあわせたもので、第三者といいますか一般の人がどう思ったかとか聖職者の醜聞に対してどういう感想があるのかなどといったところはよく見えませんでした。
 なぜ神父が妻帯や子供の存在を明らかにしなかったのか。どうして癌による死期の告知後も自分で公表できなかったのか。女性監督の言葉で言うなら「なぜ、愛を貫くことが出来なかったのか…」という事に対する答えは、番組中で一言
 「弱い男だった(から)」
 と言われたように、クリアリー神父の個人的な弱さ、愚かしさに帰するものでしかないだろうと番組を見た感想としては言えます。(そういう演出意図があったはず)


 クリアリー神父については、カリスマ的宗教者というよりは気さくな、少し型破りの、面白いことも話すタレント司祭というイメージに見えました。そして時事問題などでちょっとリベラルな言動を期待され、語る、メディアに露出が多かった有名人といったところではなかったでしょうか。
 もちろんその「型破りさ」などはお堅い宗教者としての身分ゆえに印象的になっていたのであって、ただの面白いおじさんとしてだけならそれほど特筆すべきタレント性はなかったかもしれません。だからこそ周囲は「騙された感」を後で持ったということなのでしょう。
 ユーモアを交ぜた説教ができたり、個人的に話せばとても魅力的に感じられたり、そういうひとあたりの才能は確かにあったでしょう。分析家の言う「感情転移」をよく引き起こさせる人格でもあったらしく見えました。妻であったフィリス・ハミルトンも不遇な家庭環境の中で精神的に不安定だった娘で、思わず知らずに神父にはまって行ったらしいのです。でも神父が二人の関係を明らかにせず、そういう面では堂々としていなかったためにキッチン・ドランカーになってみたり自傷行為に走ってみたりすることもあったそうで、結局幸せなカップリングとは言えなかったでしょう。
 息子のロス君は、今やほぼ三十才に届くあたりでしたが、思った以上に自分や過去を客観視できているようで、そういうところでは少しほっとします。ただし彼の人生が順調であるということでもなく、すべてはここから整理して再出発できるかというところでしたね。


 よい「ソトヅラ」は持っていながら目先の問題は先送りするだけで、身近に幸せをもたらすことのできない男というのはよくいるタイプではないかと思います。愚かといえばあまりにも愚か。たまたまそういう人間が司祭職にいた(いてしまった)という話だったのかなと見えました。
 ただし、彼をその理由でことさら叩いても仕方がないとも。愚かしさも含めて愛されるところがあったというのが実際だったでしょうし、ただただ沈黙を守るだけで、残された母子に手を差し伸べなかった教会など周囲にも非があったのは確かでしょうから。
 ロス君は、最近お父さんのことを懐かしく思い出せるようになってきたと語っていました。彼がこの先幸せになれるなら、いろいろあったけどそれは過去のこととできるんじゃないかなと感じました。