禁欲

 高山寺明恵上人の人となりが語られる書籍では、ちょっと枕詞のように「本当の清僧であった」「日本では確かに生涯不犯の清僧といえる人はほとんどいない」というような文言を目にします。(場合によっては「歴史上国内で清僧と言えるのは三名ほどしか…」などという言葉もあったり)
 本当に童貞を通した清僧がそれほどいなかったのかについての真偽は確認できるものでもありませんが、肉食妻帯が明治期に許容される以前から大黒さん(僧の隠し妻)や法弟(隠し子の隠語でもある)などの言葉で、公然とはできない僧侶の家族の存在が知られていたのは確かなようです。


 性的側面だけに限りませんが、宗教的禁欲というものにその宗派・教義を越えた理屈や合理性は無いものと考えられます。むしろそれは非合理であるがゆえに信仰を際だたせるメルクマールとなっている類のものではないかとも。それは選択し決断する種類の行為であると言えましょう。基本的な人間の欲求のいずれかのものを退けるのですから禁欲は非人間的な行為とも言えます。誰も強制はしませんし、選択は個人のものです。
 信教の自由が認められている社会であれば宗派を離脱したり禁欲を選ばないことも認められているわけですから、なおさらタブーは自発的に選択するものと見なすことができます。それを敢えて選び、脱俗の存在として宗教者の道を進むからこそ得られる信頼というものがあるわけで、自分が禁欲に生きたいと思わないのならば、そうした信頼を取るか自分の好きなことを取るかは二者択一の決断の問題だと思えます。
 いいとこ取りはずるい。という第三者の感想を避けることはできません。