イスラムの「聖職者」

 建前だろうという方もいらっしゃるかもしれませんが、私の理解ではやはりイスラムに聖職者はいないと考えています。ウラマー(ulamā)を聖職者と見るのは、特にシーア派においてそうとしか見えない時もありますが、せめて「聖職者」という言い方は控えて「宗教(的)指導者(層)」にとどめるべきではないかと。
 昨日のクローズアップ現代で国谷さんが「大統領より権威がある聖職者が…」なんていう前置きで話し出した時にそう思いました。あの人たちのもともとはイスラム法学者とか神学者とか、現実世界に適用していく際にどうしても顕在化してしまうコーランの数々の矛盾を論理的に解決する役割を担う立場にあって、生活や信仰の指針を決めていく能力があると考えられているから尊敬され指導者的に思われているのです(コーラン自体は啓示の書ですから矛盾など超越していてそれはよいのです、ムスリムにとっては)。

 ムハンマドは地上にはいかなる「主人」も認めなかった。「主人」―宗教的にいえば「主」―と呼ばれる者は、この被造界にはただの一人も存在しない。真に「主」の名に価するのはただ独り、唯一絶対の神、アッラーだけ。そしてこの唯一絶対の神だけが、人間から絶対的「イスラーム」を、つまり「奴隷であること」を正当な根拠に基づいて要求するのである。

 当然、一般に聖職者を「わが主」(ラビ rabbī)と呼び、特にモーセを「われらが主」(rabba-nū)と呼んで崇めるユダヤ教徒の慣習も非難された。

 このような神ならぬ存在を神格化し、「主」として崇拝する歪んだ心性のゆえに、ユダヤ教キリスト教、そしてジャーヒリーヤの通俗信仰を通じて、かの「永遠の宗教」、純正無雑な絶対的一神教の伝統は次第に多神教(shirk)に向かって堕落した。そうムハンマドは確信していた。
 (井筒俊彦イスラーム生誕』中公文庫、pp.138-139)