教員が断定口調で語るのは

 某ブロガーで教師と名乗っておられる方の口調を、断言するのは先生の職業柄なのかねと慨嘆する記事を読みました。おそらく違うんじゃないかと思います。といいますか「先生は断言する(ものだ)」が仮に真でも「断定口調は先生であるからだ」は真とは限らない…ということに尽きますが。
 断定口調であやふやなことを決めつけるのが(ほとんど)教員だとすれば、ブログ界隈は半分ぐらいが教員ということになってしまうでしょうね。教員であるなしに拘わらず、憶測だけのことを断言したり決めつけていい加減なことを書かれるかたは多くいて、それは個人的資質とか環境とかネットでの立ち位置とかそういうものにより左右されているのだと考えます(もちろん教師であることという条件も多少は影響するときがあるでしょうけど)。


 さてその「断言する教員像」ですが、これは物事の是非を教えるという立場が教員にある以上(職業柄)当たり前にあることではないでしょうか。自分の個人的な経験から言っても確かに多かったです。幼稚園から高校まで、特に低学年の時ほど(こちらが子供ですから)断定的にこうなんだと言ってくる先生は多かった印象があります。少々知恵がついて大人びてくるほど反発も感じるんですがね。
 ただ意外に大学以降は、断定してくる先生にあまり会わなかったようにも思います。少ない経験で結論を出すのも無謀なのですが、「こちらがある程度大人扱いされる」「断定口調で何か言われるほど関わりがない」「子供だましは通用しないと思われる」などなどちょっと考えてもそれについては納得できそうな理由は一杯ありまして、人によっては独善的な教員に大学以降でも会う不幸はあるでしょうが、確率的に低くなっているんじゃないかと想像されます。


 また、特に研究者としての側面も色濃く持つ立場の教員になりますと、こと教える内容に関しても断言できることはそれほど多くないということが見えていますし(逆に言いますと、学問のあやふやな部分や変わり得る部分についてよく知っているようになっていますから)、それほど断定的に語らなくなるのも当然かと思います。
 そしてむしろ昨今は(高等教育の)教員の教え方が良いとか悪いとかのFD的な関心が高まっていまして、そこでは「断言するほうがよい(しなさい)」とアドバイスされたりすることもあったり…。

 「その分野を徹底的に研究している人こそ、よい教育者になれる」という考え方もあるでしょう。しかし、私は少なくとも以下の1点において、研究と教育はまったく逆のアプローチになると思っています。


 研究者にとって大切なのは、あらゆる考え方・可能性を検討することです。一方、教育者は、(いろいろな考えを踏まえたうえで、それらに順列をつけ)「これが正しい!」と教えることが求められます。


 私が教員に転じた1年目の授業がうまくいかなかった原因は主にここにありました。情報社会の諸問題について「こういう考え方もある」「一方でこういう考え方もある」とやりすぎたのです。学生側からすると、どれか1個にしてほしいというのが本音。大学院レベルならいざ知らず、一般の高等教育では教員サイドで教える内容を整理して、結論を一つに絞って言い切ることが大切でしょう。諸事明快であることは、教師の大切な素養の一つです。
 (大島武「よい教師を演じよう」看護展望.vol.32 no.4. 2007.3)

 こうおっしゃる大島氏は大島渚氏のご子息で、NTTの技術職から転身して30代で教職に就かれた方です。氏独自のパフォーマンス論でFD絡みの講演などに引っ張りだこだそうです。


 占い師や予言者などに断言が求められるように、(研究者未満の)教育には今断言(単純明快さ)が求められている。それは学生の求めるものなのだから…という主旨ですね。すべての学生がそうではないと思いますが、効率的に単位が欲しいというタイプの学生にとって明快さが求められるのはありそうな話で、そうした学生が増えているとか何とかは内田樹さんが書かれていたように憶えています。


 で、そういうことをおっしゃる大島氏が人気だということは、案外大学の教員が「断定口調でない」(から問題だ)というような状況があるんじゃないかともふと思えたわけで、なおさら妙に断言する変な方のことについては個人的なものでしょう、と思えるわけでした*1

*1:失態は失態でもそれは職業に関係ないところでの問題が関わっているだろうという判断を私はしています