不幸自慢

竹本:あ…えっと。いえ…。ぼくは…。自分を探しに出たわけでは…。ただ…何となく、何ていうか、つい…。どこまで走れるのかなぁって思って…。就職もなかなか決まらなくて。それ以前に、自分が何にむいているのかもわからなくて…


六太郎:けっ ばっかじゃねーの? そんなのはなんだかんだいって余裕のある人間のやるこった。そんな迷ってフラついてても食べていけるのはどーせ親のおかげだろ? お前いくつだ


竹本:に…22…


六太郎:オレをみろ。16から働いてんだぜ!?


竹本:


六太郎:だからっっ えーと なんつーのか。 お前見てっとイライラすんだよ。 悩んだり迷ったりオレにゃあ そんなヨユーもなかったよ。 兄弟は9人もいるわビンボーだわでオレ15で家追ん出されたんだぜ!? お前みてーなのはただのあまったれだっ。お前にこの気持ちがっっっ


ゴスッ ←げんこつの音)
 はぶしっっ ←六太郎


棟梁:最初に言ったよなあ? ええ? 六太郎よ


六太郎:ああ… 棟梁…


棟梁:不幸自慢禁止」って。 お前だけじゃねぇ、みんな事情はある。――が腹におさめてがんばってんだよ。 キリがねえんだよ、そこ張り合い始めたら。 全員で不幸めざしてヨーイドンだ。 そんなんどこにイミがある!?

 (羽海野チカハチミツとクローバー7巻』集英社、pp.67-69)

 【断 横田由美子】不幸に甘える若者たち という記事、批判を受けそうなものだとは思いましたが、案の定かなり怒っている人が多いようです(→ブコメ
 批判される一番の理由は、これを「世代論」で書いてしまっていることです。俗流若者論とかそういった世代論が一部でなぜか受ける昨今、安易に世代論にしてしまっているのは大きな失敗だと感じます。


 それでも私はこの記事の中に「不幸自慢への危惧」を見ます。それは評価される点だと思っています。
 いろんな境遇の人がいて、いろんな不幸の形があって、人によっては自虐的にそれを悲しく笑ったり(時に笑い飛ばしたり)もします。それはある意味健全なことだと考えます。たぶん笑いに走るその時、その人は自分を客観化できているところがあるだろうからです。
 でも不幸自慢に陥るとき、それは過度に感傷的で場合によっては過剰に他罰的なのではないでしょうか。そういうときに自分がちゃんと客観視できているとは(我が身を振り返っても)思えません。
 外的な問題をきちんと指摘するためには、自分を含めた世界を客観的に見据えることが必要です。社会的・制度的な問題に声をあげるのは当然としても、それは不幸自慢の絡みですべきではない。この記事からはそういうニュアンスをくみ取れば、なにも世代論にしなくともここにはちゃんと意味があるのです。