「内面」の神話

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の逸話

様々な言語が飛び交うパレルモで育ったフリードリヒ2世は、人は自然には何語を話すのか疑問に思い、生まれたなりの赤子を集めて一切話しかけずに育てたところ、いずれも死んでしまったという。

 (wikipedia日本語版

 このエピソードはもっと古代の王の名の下に憶えていたのでしたが、いざ調べてみるとこれしか見つからなかったので…


 母語によって考え、それが「自分」を形成する思考であると感じていると、いつの間にかそういう「自分の内面」が先験的にあったと思いがちです。でもその「自分」というものは、周囲を模倣し周囲から獲得してきたものなのです。何を得る環境にあったか、また獲得したものからどう発展させたかに独自性(個性)はもちろんあるでしょうが、順番として「内面は後から作られた」のです。そしてそれが一旦作られてしまうと、その「内面」から思考する癖が生じ、それが獲得されたものであることを忘れてしまうという構成がそこにあるのだと考えます。


 明治期からわが国で様々な(近代)文学が読まれ、重視されていったのは、「内面」を基本的なものとする「近代」を人々が習得していくのに必要だったからではないかと私は思っています。それ以前から内面やら個というものはあったにせよ、そこから物事を考え始めるという思考法は定着していなかったのではないかと。


 内と外が峻別されるという考え方自体、もしかしたら「癖」のようなものなのかもしれません。あまりにそれに慣れていると、その発想を超えた考え方がなかなか理解できないということがあるのではないでしょうか。

 現在、わたしたちの周辺において、医の技術知としてうけいれられているのは、つぎのような立場である。その立場には、「近代」とか「西欧」とかの名が冠されてよいが、しかもなお現在、近代と西欧との範疇をこえて、通用力を主張しうることに、注意しておきたい。

 まず第一に、病変の多く、もしくはほぼすべては、人体にとっては外在的な要因によって生起すること。人体のメカニズムがいかであれ、それ自体は本来的に良好な状態で機能しており、病変はそこにはおこりえない。その外在要因としてなにを措定するかについては、近代科学史上の苦難にみちた論争が、想起されればよかろう。結果として、その外因は、病原菌の周辺に集中されていった。

 病原菌であれ、そのほかの異物(それは、結果として、しばしば未知の病原菌をふくむものであるが)であれ、病変は、生体にとっての外来物の責に帰される。そのような認識は、あきらかにひとつの確固たる世界観にうらうちされていた。すなわち、内外の区別対応である。生体の内部は、自立して隔絶された城壁囲繞空間のごときものであり、外界は、その生体にたいして、つねに敵対的な異種空間だとする思考である。内部は、生理学的にいえば、善の価値を体現しており、外界は善に対立する悪の価値をおびることになろう。


 認識手段としても、また価値規範としても、内と外とは、明白な対抗関係のなかにおかれる。そのような思考法が、西欧および近代の世界のなかに、確たる足場をもっていることは、あるいは累説を要しないであろうか。そのさいの、内と外とは、たとえば都市城郭と農村空間とにおきかえてもよい。あるいは、ヨーロッパと非ヨーロッパとしてもよい。または、霊と肉、天使と悪魔、自我と世界といってもよい。主体と客体といいかえることすらもできよう。いうまでもなく、霊と自我と天使とが、病変におかされるのは、肉や世界や悪魔という異物、病原体が、外から内部を侵犯するところに発する。

 さて、病原菌や異物という外来原因説は、ただちに近代治療法の枢要をみちびくことになろう。すなわち、疾病原因の除去にほかならない。病原菌の排除、つまり消毒こそが、治療の中心をなすようになる。十九世紀後半にはあいついで消毒法が発見された。石炭酸、マーキュロ液などの薬物殺菌法や、煮沸、焼却などの物理的消毒法は、多数の疾病から、ひとを救済した。さらには、腐敗食品、汚濁空気から、健康人を隔離することによって、疾病は予防されうるようになった。かつて、レプラやペストにたいして、ひとびとがおこなってきた隔離法は、病原学的な根拠をあたえられ、病原菌は正当な治療法によって生体からとおざけれられる。


 むろん、隔離されるのは、異物としての病原菌ばかりか、疾病をおびた患者でもあった。伝染源を除去するという名目のもとに、患者は治療施設のなかに収容される。病院は、患者にとっての保養施設であると同時に、隔離のための場とも観念される。内と外との対抗図式は、治療の場では、病院の内外にあてはめられる。想像されるように、成果はめざましいものであった。もっとも恐れられた急性伝染病の犠牲者は激減した。近代医学の勝利として讃仰されるのは、これら一連の発見、発明のことである。


樺山紘一「医と病の歴史学」、『アナール論文選3 医と病』、新評論1984、所収。強調は引用者)