背骨問題2

 梅原猛氏が大学院の時、一切引用なしの論文を書いたという話を聞いたことがあります。梅原氏は「自分は哲学がしたいのであって、哲学者の研究がしたいわけではない」という主張だったといいます。例の「背骨の入った学生」の話について最初に自分に思い浮かんだのが、この若き梅原氏の主張でした。
 どこかの哲学者などについてほとんど文献学みたいなことをやって「哲学」なんて言うのはナンセンス。自分で考えた自分の哲学がなければ哲学者を名乗るべきではないし、学問として大した意味は無い、と梅原氏に共感する立場もあると思います。
 しかし一方、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」(ニュートン)という謙虚な立場を支持し、自分勝手に意見を作るのが学問ではないという意見もあるでしょう。
 ついつい極端を考えてしまう癖があって、私には「価値の判断基準が自分の内にある=精神的背骨がある学生」の一つの頂点の形が、上記梅原氏の態度であるようにも思われたのです。つまり一つの主張ではあろうけれども、無条件には賛成できない感があるものとして…


 元記事の「価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習」をよく読めば、そこまで極端な学生を望んでいるのではないだろうとわかります。「精神的背骨がある学生」は自分の誤りを認めることができる云々ともあって、極端に「自分の意見だけ主張して枉げない」人物像が求められているわけでもないのですし。
 おそらくここでは「全く自分というものが持てない学生」「自分の意見を考えるよりどこかの正解を探してしまう学生」などという一番下のランクの望ましからざる学生像があって、(高望みはせず)求められる「背骨のある学生」は、それよりは(少し)上の、「取り敢えず外部の意見・情報を咀嚼して、曲がりなりにも自分の意見を持っている(と言える)学生」ぐらいのものなのかなとも見えます。
 ただそれを表現するにしては「精神的な背骨」という言い方はいささか大仰ですし、最後のあたりではより高い境地を望んでいるかのようにも。


 「自分が無い」学生なんて本当はいないでしょう。「考える力のない学生」というのもレトリックです。自分の理想とするあたりに対して「自己主張が足りない」「考えて判断する力に欠ける」と感じる、そういう学生がいるということですね。
 自己主張が強すぎればただの頑固な傲慢になりますし、謙虚すぎても意志薄弱とか自信がないように見られてしまうだけです。程度の問題なら、程度の問題とわかるようにして書かれたほうが良かったように思われます。
 ただこれだけ喧々諤々の意見を沸かせたというのは文章に力があったからでしょうし、それで周囲に損はもちろんないわけです。私もいろいろ興味がひかれましたし、あれこれ考えるきっかけともなりました。その点ではありがたい記事だったと思います。


 ちなみに私は、学部生のあたりでは梅原氏の考え方にかなり惹かれていましたが、その後はそれだけでもないだろうと思うようになった口です。そして、内部はもともと外部によって作られるのである以上、「外に左右されない内部」というのは(少なくとも)私の考える理想にはならないものと考えています。