哲学

 つまりそもそも哲学というもの、その歴史的な狙いからいって凡ゆる学の中での最高で最も厳密であるところの学、ほかならぬ純粋で絶対的な認識(そしてそれと不可分に一緒になっているが、ほかならぬ純粋で絶対的な評価と意欲)に対する人類のたえざる念願を守っている哲学というものは、惜むらくは現実の学の形態に形成されることはできていない。人類の永遠の事業に召し出された女教師[哲学]は、とにかく教えるということ、すなわち客観的に妥当するやり方で教えるなどということはできないのだ。カントはよくこういったものだ。哲学といったものは学ぶことはできない、学びうるものといえば哲学することだけだと。だがかような言句というものはいったい、哲学の非[科]学性を告白している以外の何ものだろう。そもそも[個別]科学といったもの、現実的科学といったものの範囲内に属するものなら何でも教えたり学んだりすることはできる、しかもそれはどんなところでも同一の意味においてできるのだ。それどころか科学的に学ぶということは決して、精神にかかわりのない素材をただひたすらに受動的に受け容れるだけだといったようなものではなくて、それどころかむしろどんな場合にも自己活動といったものに立脚して行われるのであり、創造的な人々によって獲得された理性の洞察[本質洞察]を理由と帰結と[の関係]に従って内面的に追随し生産することによって行われるものなのだ。ところが哲学となると学ぶことはできないのだ、そのわけは哲学では上述のような客観的に捉えられ基礎付けられた本質洞察が存在しないからだ、そして同じことだが、哲学では概念的に明確に限界されそして完全に解明された諸問題や諸方法や諸理論がいまなお依然として存在しないからだ。
 哲学なるものが未完成な学だなどと、わたくしはいっているのではない、ずばりわたくしがいいたいのは、哲学はまだ学なんどではない、今もって何ら学としての端緒さえもつかんではいないのだと。
 (エドムント・フッサール『厳密な学としての哲学』佐竹哲雄訳、岩波書店、1972)*1

 時代の制約は当然あったものの、私はいまだにこの言葉はかなりの妥当性を持つように思います。
 哲学科を出たものが言う言葉としては奇妙かもしれませんが(笑)
 でもそれが哲学だとも。

*1:この論考の初出は1911年、彼が52歳の時書いたものです