外来語

 Brittyさんの記事、「日本語では何ていうの?」にこういう一節が、

…例えばわたしは冬にはオランダ料理のヒュッツポットというのをよく作るのだが、このレシピを教えてくれたオランダ人はやはり「日本語ではなんていうの?」と尋ねてきた。ヒュッツポット("hyuttupotto")となるのだと教えてやったところ、奴は馬鹿笑いをしてしばらく収まらなかった。彼にとっては hutspot と hyuttupotto は全然違うことばだったのである。

 確かに「hutspot と hyuttupotto」は違うでしょう。横文字を原語に聞こえるように(正確なコミュニケーションの道具として)使おうとする時には、ここでBrittyさんがおっしゃる「外国語を話すときの日本語訛りを克服したい方には、発音の際に余計な母音を増やしていないかどうか、意識すること」というのは正しいアドバイスだと思います。
 ただここでご本人が「私自身はかなりどうでもいいと思ってはいるのだが」と語られているように、あまり訛りを気にしても始まらないこともあります。それよりとにかく話すことが大事、というのはBrittyさんも語られていたことのはず。


 さらに話をずらしてもう少しここらへんを見ていきますと、現代日本語でのかなり無頓着に横文字が話し言葉や書き言葉に入ってきたり、あるいは原形をとどめないまでに省略形にされて定着したりするという状況、というものに話はつながってくる気がします。
 たとえばワープア(waapua)なんて言っても、それがworking poorの略として使われていることは英語ネイティブにわかるはずがありませんし、リストラ(risutora)がもともとrestructure(restructuring)の略であって、さらにそれが「馘首すること」という独自の意味でだけ通用しているなんて彼らの想像の範囲外だと思います。


 これは二つのことに関係しているかなと個人的には思います。
 まずネガティブなところ。何か日本では、原語(特に横文字)をそのままの発音に近く使うことが「気取った」ことであり、日本語の端々にそんな言葉を差し挟む者は「見せびらかし」の気持ちを持った「やな奴」であるというような、一種反知性主義みたいな風潮がどこかに残っているということがあるような気が。
 この生齧りの「かぶれ者」をカリカチュアライズして受けを取ったのが、古くはトニー谷やイヤミというキャラで、最近はルー大柴あたりなのでしょう。芸になっていれば面白みもでますが、実際にああいうような人がいれば反感を買うだけでしょうね。帰国子女に対するいわれのない反感やいじめも、こうしたところにつながっているのかもしれません。
 もう一つにはポジティブなところ。これはそうした外来語が、外国語ネイティブとのコミュニケーションを端から意識していない「内輪の言葉」として受容されているということもあろうかと考えます。内輪の日本語として、日本語化した言葉として咀嚼して用いるものであれば、原語の発音や原義がどうあろうと関係ないでしょう。
 たとえばオランダという国名自体、あの国の人に言っても最初から通じないですよね。Koninkrijk der Nederlandenがなぜ「オランダ」なのか、これはいろいろな歴史、日本への受容の過程に関わるもの*1で、英語でオランダ語(人)をDutchと呼称するのと同じようにいろいろ背景があるのです。
 日本人が外国の人に「Japanだって、笑っちゃう。Nipponだろ?」と強要しないのは、それが彼らの背景の中で日本を示していることがわかっているからで、一方的に笑うとか批難するとかいう筋のものではないからです。(でも往々にしてナショナリスティックな風潮は、自国を「ミャンマー」と呼べ的なことにつながるもの)


 さて、この内輪というのがどういう範囲かと言いますと、それはもちろん線を引いて明示するのができないものではありますが、ここまで私が書いてきたカタカナ文字、
 コミュニケーション
 アドバイス
 ネイティブ
 ネガティブ
 ポジティブ
 カリカチュアライズ
 ナショナリスティック
 などという言葉を、何の問題もなくさらっと読めて意味が取れたと思った方々が、この私の文章に関しての「内輪」なんですね。


 そしてこれらの言葉を「意思疎通」だの「戯画化」だのと訳したとしても、そもそもそれはやまとことばでは無いんです。日本語は漢語を多く輸入することによって表現の幅を広げた言葉です(もちろん文字自体からしてそうなのですが)。
 元々の発音はあまり気にせずに概念として受け容れ、あるいは特有の意味を付加したり変容させたりしてちゃっかり「日本語」にしてしまっています。漢字の「漢音・唐音・呉音」なんて日常意識しませんし、もし意識したとしても四声もなければ日本語訛りが強いものですので、中国語ネイティブに伝わろうはずもありません。


 それで良いんだという姿勢があるのでしょう。この流れで、無頓着に外来語を咀嚼して使うということが行われているという気がしてなりません。もちろんこうした外来語の土着化はいくらでも他の言語にも見ることができるのでしょうが、やや日本語はその傾向が強いのかもと感じます。
 カレーが、もはやCurryでもなく(もちろんkariでもMasalaでもなく)代表的な「日本食」になっているように、もしかしたらヒュッツポットもそうなるかもしれませんね。
 この意味でBrittyさんのところの記事に出てきたオランダ人は単に考えが浅いのではないかと思えたのでした(笑)。

*1:俗称のHollandのポルトガル語訳が戦国時代の日本にもたらされたとか