「卒業証書をあげない、は象徴的なもの」のコメントへのお返事

 昨日の記事に寄せられたコメントに返事を書いていましたら長くなってしまいましたので、こちらで独立したものとして書きます。
 コメントはtikani_nemuru_M さんからのもので、以下のように書かれていました。

>いくつかのサイトでの議論で「生徒の不利益」に焦点があてられていたように思いますが、島根のはやや行き過ぎがあったとしても、結局卒業はさせるということだと知ってからのご意見はどうなのか聞いてみたい気もしています。

http://www.cml-office.org/archive/1236366816289.html
例えばapj氏は、上記コメ欄で
「授業料を払ってない状態で、学校と生徒の関係が維持されていることが既におかしい」
といっています。
つまり、この問題で学校側の対応を支持したヒトタチの中には、生徒の不利益を当然とみなす意見の持ち主が相当数いるのではないかと考えられるのですね。


 id:tikani_nemuru_M さん
 私は一連の「卒業証書を差し止める」といったケースで、高校でも大学でもですが、今まで教えてきた生徒・学生を喜んで卒業させないような教員はいないと基本的に思う立場です。
 学校側の姿勢を善意(かつやむを得ないもの)に見るか悪意(かつ抑圧的なもの)に見るか、あるいは親の側でみるか学校の側で見るかまた子供がなにより大事だ見るか、そういったケースの捉え方の違いが解釈の相違、最初の齟齬としてでてきていた議論に思われました。


 apjさんの立場は、後に続くエントリーなどを読んでおぼろげに理解してきたつもりですが、かなりドライなもので、それこそ従前の「師弟関係」イメージに拘っていたら問題は解決しないんだというお考えではないかと読めました。学校と親、生徒学生と教員の関係もきわめてドライに契約関係として見て、敢えて情が絡んだような、もしくは理想の師弟関係のようなものが関わるものとしては考えない方がいいんだ、とする立場だと。
 話の流れでそういうような極論にポジションを取られることになった面もあると思います。これはかなり極端な立場で、私はそこに立つわけでもありません。しかしながらそれもまた一つの立場であろうとは考えます。


 今回の島根や山梨のケースで、それこそ最初から法的手段に訴えればいいのにみたいにおっしゃる方々もおられます。そういうドライな方法か、しからずんば(ウェットに)生徒や親の立場を考えてあげる方法か、そのどちらかだろうと迫られる形でapjさんは一方の極にポジショニングしたんじゃないかと。(同時にapjさんを批判する立場の方々は逆の極に相対的にまわる形に)


 私はこれら公立高校はその中間を選ばざるを得なかったのではないかと思います。おかげでどこからも責められ得る中途半端な立場に見えてしまうのですが。
 総人口が72万数千の島根、87万1千の山梨、そのどちらの県庁所在地の人口も20万を切るぐらいでしかありません。こういう小さな地方都市で、学校が父兄に対して法的措置を以て争うことになればかなりスキャンダルなことになるでしょう。大都市部にお住まいの方々には想像しかねることかもしれませんが、こういうスキャンダルは直接・間接に子供の不利益にもなってしまうのです。
 強い方法で親を責めれば子供すら傷つくというこの状況で、ドライにもなりきれず、またウェットに見逃すという方向も取れず、何とか考え出した手段がこの「卒業証書を渡さない」という象徴的手段であったのではないかと私には思えました。


 昨日の記事へのブクマコメントで、id:kamezoさんは

 象徴的行為というか、実害が出ない「おしおき」というか。/大学図書館の例は順当なような。/保護者に向かう場合でも、公的機関や教育機関が恫喝や嫌がらせめいた手法をとるのは違和感が残ってしまうのは潔癖性?

 というように書かれました。
 問題解決の手段として強制力が全く働かないもの(たとえば話し合い)は効力がないということだったのではないかと思います。それゆえ最低限の強制力を実害というより象徴的なもので図ったのが「卒業証書差し止め」だったのでしょう。権限がないゆえに実力行使に出られず、また法的手段も取れないなら、こうした持って回った手段になってしまうものと思います。
 これをkamezoさんのように「嫌がらせ」と取られる方が出るのは理解できると思いますが、私にはそうは思えませんでした。中途半端だったかもしれませんが、苦肉の策としてはあり得るものだと。


 もちろん島根のケースでは卒業式で卒業証書の授与をしないとするものだったようで、さすがにそれは行き過ぎの感を持ちます。しかし山梨のケースでは、式での授与後に、別室で、納得してもらった上で高校側は証書をあずかるという行為にでています。
 相手が納得した「嫌がらせ」などあるはずがないのです。


 tikani_nemuru_M さんがおっしゃる「子供第一」にも共感できます。またkamezoさん他、親や子供の立場をもっと考えるべきというのも間違った意見ではないと考えます。ただ同時に私は他の状況やら学校の立場も考えようと思うのです。そうした結果、まあ景気のいい話ではなく生煮えのような意見ですが、生徒も可哀想、学校側の苦衷もわかる…といったあたりに意見を持たざるを得ないんじゃないかと感じてきたわけです。


 最初に激して高校を非難された方の少なからぬ人は、卒業証書を取り上げる=卒業させない、だと考えられて強い口調になったのではないのでしょうか? あくまで私の個人的感想ですが。それゆえ、そうじゃないという前提でもう一度考えられたらどうなるだろうと(そして願わくは学校側の立場も少しでも考えてみればどうなるだろうかと)、そんなことを考えて昨日のエントリを書いたのでした。


 蛇足ですが、学校側の権力を無くす、たとえば体罰の禁止ですとか親絡みの案件では教育委員会の意見を採るですとか、そういう方策によって子供や親の立場・人権の面ではめざましく進展があったとは思います。しかしそういう形で力を削いだのでしたら、今度は学校側の依って立つ所にも配慮することが必要ではないかとも考えます。たぶんapjさんがドライな関係の必要性をおっしゃるところには、そういう御意見があるものと…。
 権限ある聖職者ではないということならば、聖職者的な負担も外さなければやっていられない…というのは、ちょうど医療分野でパターナリズム全開の権威ある医師像が無くなったのにも拘わらず、サラリーマン医師にもあたかも無限定の奉仕者としてあれとプレッシャーがかかり、医療現場が疲弊していっているのにも似た話だと思います。
 私はまだ極端なドライ、極端なウエットのどちらでもないところで、教育に関しては落としどころがあるはずと希望的に考えているのですが…。

追記

 まだ右のトラバ欄に反映されていないのですが、kamezoさんよりトラックバックをいただいております。
 「親がアホ」のツケ 番外:「卒業させない」と「卒業証書をあげない」です。ありがとうございました。