断片

 私たちは自分の経験の中で善なり悪なりといった判断をするのですが、一方で「善」(もしくは「悪」)という言葉自身が経験を越えたある種の宇宙論的理念を私たちに想起させる場合もあります。これは特殊なもの(制約されたもの)に対して向けられた意識がそれらを包括する概念を捉える際に、その問題設定上の要請として現れてくる傾向なのではないかと考えます。
 ちょうどこれはカントの「美」論において、議論の布置が超越論的であると指摘される点につながるのではないでしょうか。週末の外出時に、たまたま読み物として一冊だけ携帯した「創文」にそういうことを想起させる二編の文がありました。まったくの偶然なのですが。

 どこまでも個別的な経験をカントは、美的経験の名のもとに把握しようと努めたが、しかしそれは、閉ざされた感情のクオリアとしてではなく、「だれにとっても美しい」という普遍妥当性を要求し、伝達可能な共同性をそなえた経験としてであった。
 カントによれば、何かを美しいとみなす判断は「認識」ではない。美的なものは普遍妥当的な知を構成するのではなく、あくまで反省的に感情のレベルにおいて普遍性を「要請」するにすぎない。他方またわたしたちの美的な態度は、世界へと実践的・能動的にかかわり、世界を作りかえる「行為」でもない。

 ひたすら反省的に、内なる感情として見いだされねばならない美とは、自然のうちに隠された合目的性と主観的調和性との稀有な照応を暗示している。したがってこのようなカント的美論の背後には、じつは、『純粋理性批判』弁証論において断念された自然神学的なモチーフ(つまり神の存在証明への希求)が潜んでおり、それを再び統整的原理の名のもとに再構築しようという野心が含まれていた。


 しかしながら純粋理性のアプリオリな総合判断に対してさえ、分析哲学によって異議が申し立てられている時代にあっては、そもそも超越論的問題設定そのものが少々いかがわしい枠組みとして考えられつつある。だとすれば、およそあやふやな「感情」なるものに根ざした美の普遍妥当性など、とうてい要求しがたいようにも思われる。何が美しいかという趣味判断の相対性など、あまりにも自明ではないかとわたしたちの大多数は答えるだろう。
(小林信之「闇はあやなし―美的なものの場所について―」)

 理性の展開形式の普遍性を捉えようとした試みは、ある意味フッサールの超越論的自我に至るものであったと思います。しかしながらその試みは潰えてしまいました。

 カールソンの環境モデル理論*1はそれなりに説得的であるが、かれのいう科学的知識にもとづく「自然」の概念も、なお問題をはらむ。科学は山岳や渓谷や湿地といった特定の自然環境から、それがむかうべき総体としての「自然」の秩序と統一性の把握へとむかうが、そのときこの「自然」概念は容易に、われわれ人間をも包括しつつ、しかもわれわれの経験をこえたひとつの超越的全体性という理念を想定する。こうしてすでにカントが指摘した、「自然の事物」の全体という「宇宙論的理念」つまり「超越的自然概念」をめぐるアンチノミー*2が顕在化する。
(西村清和「自然の美的鑑賞」)

 これは若干焦点を異にする考察ですが、ここでもカントの問題設定自体が俎上に上げられているということで、電車の中で興味深く読んでいました。

*1:アラン・カールソン。自然とはまずは自然環境であるとして、自然のそのつど異なった環境を美的に鑑賞するためには、自然環境の異同やそこに働くシステム、諸要素についての知識など「常識的・科学的知識」を必要とするという考え方。

*2:二律背反。矛盾。