差別を糾弾するということ

 いったいこれは何なのか、ということです。
イラン大統領「イスラエルは差別の国」 欧州諸国の代表は退場

 2001年に開かれた国連主催の世界人種差別撤廃会議の成果を確認し、今後の課題を話し合う再検討会議が20日、ジュネーブの国連欧州本部で開幕した。イランのアフマディネジャド大統領は演説で「イスラエルは人種差別主義者の国だ」と批判。これに抗議して欧州諸国の代表が演説中に退場した。


 同本部によると、会議で採択予定の「成果文書」の内容への不満などを理由に、米国やイスラエルなど計九カ国が不参加。アフマディネジャド大統領の発言で会議は初日から紛糾し、人種差別問題をめぐる国際社会の亀裂があらためて浮き彫りとなった。(後略)
(共同−MSN産経ニュース 4/21)

 レイシスト呼ばわりが一定の効果を持つラベリングだと認識されている所為ではないかと私には見えます。そういうレッテルの貼り合いがレイシズムの撤廃に効果的であると言えるのでしょうか?


 何度か書いたことがありますが、レイシストを「差別主義者」みたいに訳すのは妙なことだと考えてきました。差別自体を主義主張にしている人なんて滅多にいるものではないだろうからです。そこに思想的な絡みがあったとしても、あくまで差別や偏見はその主義・思想の副産物として出てきてしまうものであるはず。そして何より「差別主義者」と誰かを指さすとき、それが容易に人格批難、人格攻撃に転じてしまいがちなのが問題だからです。


 私は、偏見を持ったり差別的言動をしたりすることから全く免れている人がそんなにいるとは思いません。ただ指摘があれば自分の行為を反省したり、偏見から脱することができる人はかつてより増えていると思います。こうした傾向を伸ばすことが最も望ましい方向だと感じます。
 差別・偏見は誰か特殊な人間の「属性」だとは言えないはずですし、むしろそれを属性として捉えるなら人間が皆陥りがちな傾向ということなのだろうとも考えます。
 その意味では「絶対に差別しない」ことを目的とするより「差別的な言動に気付いてそれを止める」ことのできる風潮を作るほうが効率的ではないかと思っています。


 「差別主義者」を糾弾する行為はひそかに排除の論理に従っているようにも思われます。本性的に差別をする人間を社会から除いていけば、そこに差別のない社会が生まれるだろうという脈絡です。でもおそらくそれはむなしいモグラ叩きになってしまうと感じられてなりません。
 またもう一つ、誰かの差別・偏見を弾劾すれば、その声をあげている者は差別や偏見から免れているという感じが一時的にも現れます。でもそれはその人がその局面では差別者でない、という以上のことは意味しません。ある割合の差別的属性を持った人間が社会にいる。だからその人を除けば社会から差別はなくなる。ということではなくて、属性・本性ということで言ったら誰もその傾向の発現から逃れることはできない。そういうことではないかと思うのです。
 かつてそういうことを言った時に、それは差別主義者を免責する卑怯な言葉だと言われたことがあります。私はそう思いませんでした。糾弾か免責か、という単純な二分法に従ういわれはちっともないのですから。


 こうした排除の論理、無垢の錯覚が人々の間だけではなく、社会と社会の関係においても大手を振ってしまっているのが現状だと見えます。上のニュースもその一例ではないでしょうか。
 本当はどこかの社会を批難することで「道徳的優位」とやらが得られるわけではないのです。宣伝合戦が差別の廃絶に資するとはちっとも思えません。
 どこかの国、どこかの社会、どこかの民族だけが本性的に差別する…こう考えるのはそれこそ酷く「差別的」な偏見でしょう。そんなことはあり得ません。
 差別的なものをできるだけ効果的に無くしていくには、大きな声でののしるより有効な方策はあると思います。特にこれが国レベル、社会レベルの話になりますと、批難して頑なにさせるより冷静に指摘して話し合うほうがよっぽど効果的なのではないでしょうか。迂遠なようで、たぶんそれが一番だと思えるのですが…