インフルエンザで差別を語るのは危険

 ちょっと散見するんですが、今回のインフルエンザ騒動のケースと差別問題なんかを一緒くたにして語られている記事なんかを。これは大人でも相当難しい絡みなのに、子供たちに話しちゃったりすれば混乱や誤解を招くと思うんですよ。


 「誰かを忌避する」というところで共通のところは確かにあるんですが、謂われのない言いがかりの差別とリスクを避けるために誰かから離れる行為をそこで一緒くたにして語れば、どういうメッセージが伝わるかというと「どんな場合でも誰かを忌避してはいけない」という極端な話になりかねません。それが正しいと思って語られているのでしょうか?


 特に感染症などのリスクをはかるのは難しい問題です。誰かが感染が広まってきている地域に行ったとして、むやみにその人の媒介を危険視するのも駄目でしょうが、同時にその人が絶対何か拾ってきていないとも言えないんです。その人が徹底的に感染管理をしていたのか、それともたかをくくって漫然としていたのかもわかりませんし、かなり気をつけていても感染する時は感染してしまいますしその逆もあるわけです。
 結果論みたいなものでしか判断できないような、そういう難しい間合いの取り方は私ですら悩みます。一人一人が自分なりにそのケースごとに考えるしかない、そういう話だと思います。


 「どんな場合でも誰かを忌避してはいけない」と受け取った良い子が、まったく感染のリスクなど気にしないように振る舞うようになってしまったらどうでしょうか? 私だったら知り合いの子をそういう蛮勇の持ち主にしてしまうのもためらいますし、決してそれが正しいことだとも考えません。


 リスクをことさらに過大に評価するのが困りものだとしても、確かにそこにリスクがあるのなら「怯えすぎ」た方が結果的には正解ということだってあるでしょう。
 うちはかつて結核筋の家で、祖父母の代の上の人たちは結構結核で亡くなっています。最後にうちの母が結核になりました。高校入学と同時に診断が下され、高校は頭から三年ほど休学という具合でした。それより何より「二十歳まではちょっと…」と医師に耳打ちされてしまっていたようで、たまたまストレプトマイシンが入手できなかったらもちろん私も存在していなかったでしょう。
 そんなお姉ちゃんが大好きな末っ子の叔父は、いくら大人が駄目だ駄目だ言っても奥の座敷で寝ている母のところに入ろうとしていたそうです。構ってもらいたかったんでしょうね。でもたまに本当に入ってきても近くに寄らないでと叱らなくてはならず、母の方にも心理的負担は大きかったそうです。
 結果的に叔父にはうつりませんでしたし、母も聴覚の後遺症は残ったものの生き延びることはできました。結果オーライということではあっても、あそこでもし叔父(弟)に感染させてしまっていたら、母はどれだけ悲しい思いをしたでしょう。
 もしそれが肉親・知人じゃなくても、私だって誰かに感染させたくはないですし、絶対に自分は大丈夫みたいな根拠のない自信はそうそう持っちゃいけないと考えています。今回の新型インフルエンザだって、自覚症状が出て熱が上がる一日二日前からもう飛沫感染は可能になっているというじゃないですか。流行地にいったならば、しばらく自制するのがむしろ自分ならば当然と思います。


 せいぜいできるのはリスクの有無をはっきりさせるということと、もしリスクがあって避けなければいけないとしても「心無い避け方」をしないように、そういうことにとどめるしかないんじゃないでしょうか?
 少なくとも「人を避けてはいけない」とかいう絡みで、こういう感染症の話を持ってくるのは危なすぎて見ていられないと思えるのでした。