祟る=タツアル

 祟り(タタリ)というものが禍々しいもの、呪詛・ノロイといったものと同様の事柄であると考えられるようになったのは後代のことであって、もともとは「立つあり」、つまり神の出現がある(あった)ということであろうと言うことはもはや普通に考えられるようになっていると思います。
 神域あるいは何らかのカミの領域の侵犯などによりカミはそこに現れるのです。禁忌が破られることによって出現する神威はタブーを破った者にとってはもちろん脅威ではありますが、カミのおでまし自体はマツリによって請い求めるものでもある以上、何も常に人にとって受け容れ難いものではなかったとも言えるでしょう。


 ⇒全部まとめて神事なんじゃないかな(少年少女科学倶楽部)

…実際には、これはある種の神事と見た方がいいのかもしれない。


 つまり、新型インフルエンザというケガレを持ち込んだタタリ神に対して、「お祭り」を行うことで鎮まってもらう、或いは脅したりすかしたりして退散させる。この場合、お祭りの中心である依代となるのは感染者であり、祭事の中心となるのは依代たる感染者に関わる学校などの「場所」となる。

 穢れ(ケガレ)は、最古層を考えれば「気枯れ」につながるものなのでしょうが、基本的には日本の民族社会においては「生と対立する死へのイメージを呼び起こすもの」としてあると考えられます。それはこの世の中において繰り返し生産され続けるものであり、「不潔・危険・強力・感染性」などの特質を持って何らかの形で祓へ遣る(ハラヘヤル)必要があるものとして考えられていました。
 この意味で、新型インフルエンザを一種のケガレであると見るのは卓見かと思われますが、あくまでそのケガレを祓う方向で神事(カミゴト)は行われるものですから、騒ぎ立ててケガレの威力を誇張するマスメディアをお祭りの主体として考えるのは「ずれる」ということになると思います。


 マツリはカミをお呼びし、歓待し、気分良くなっていただき、送り返すものとしてあります。それゆえ巫(カンナギ)というマツリにあたる者は神(カミ)を和ませる(ナギ)者として、接待の当体として考えられる者でした。タブーを破ったことによるカミの出現=タタリがマツリにより鎮められるとしても、それは「騒ぎ」によってではなく歓待によってです。すなわち今後、誰かが新型インフルエンザというタタリを祓え遣ったり、あるいはコントロール不可のものとアキラめ「価値の逆転、読み替え」をして、福徳の力の方向にこのタタリを意味付けることができる人がでるとすれば、その人(主体)こそがカンナギとして讃えられるべき者なのだと考えます。
 境の神も、マレビトや来訪神も、祖霊や祖先神もそうしてケガレから生まれたともされるのですから。