罪を憎んで…

 連続殺人を犯した人間でも自分の母親には優しいということはあるかもしれません。幼い子供を手にかけたような人でも、誰かに親切にしてあげたことはきっとあるでしょう。あのカンダタの話も私はそういう面から読んでいたように思います。
 とにかく邪悪な思考・性質で悪いことしかしない人間も、まっさらに無垢で良いことしかできない人間も、私はいるような気がしません。人間が多面的であるというのは確かで、もちろん善悪以外にもいろいろな面を持ってその時その時を人は生きているのです。
 中には80%きれいな考えの人もいたり、90%真っ黒に出来ている人もいるかもしれません。そういう奇跡的に偏った人間がいるとしても、案外当人は自分は「普通」だと思っていたり…。ありそうなことです。


 相手によって変える、というより相手により状況により私たちは変わる、異なった対応を引き出されるのでしょう。だからやたら怒りっぽい自分がいたら、その怒りを向ける相手からちょっと離れてみたり。あるいはどうしてもやる気がでない自分がいたら、何がしかやる気を引き出してくれる人の傍へ行ってみたり。
 そうすれば、自分でも嫌な「怒りっぽい自分」や「無気力な自分」というものから離れることができるかもしれません。また逆に、自分がどうしても嫌いな人間から離れてしまえば(運良くそれができる状況なら、ですが)その相手も嫌な人間ではなくなって(そう振る舞わなくてよくなって)、お互いに幸せになるということもあるんじゃないでしょうか?
 時々ネットでも見かける「熱くなった諍い」。たぶん当事者はお互いにお互いのことがすっごく嫌な奴に見えて、馬鹿な人間に見えて、死ねばいいのにと思い合っているのかもしれませんが、その当の嫌な相手が他のある人には嫌なところを見せていないということはよくあることです。見せなくていい相手にわざわざ嫌らしく振る舞う必要もないですしね。ところが諍いをしているある人には、自分と親しい某氏が自分の不倶戴天の「敵」とわざわざ仲良くしているようにも見えたりするんです。そしてよせばいいのにその親しい向きに「何であんな奴と話をするのか?」とか「あいつはとにかく邪悪な人間で…」とか、「自分の感情をわかって欲しい」「自分があの人間を嫌うのを理解して欲しい」というように気持ちを押しつけ、で結局その親しい人も失ってしまう…これもしばしば見かけることですよね。もし自分が二十歳そこそこ(あるいはもっと若くに)でネットをやっていたら、まずやってしまっていただろう失敗だと思います。まあ幸か不幸かそういう年齢の時にはまだパソ通もなかったんですけど(笑)


 私は、罪を憎んで人を憎まずということを、その人が為したことを責めその人の全人格を責めないということだと考えています。誰かに犯罪行為が行われればその犯罪を問責すればいいのであって、あえてそこに「邪悪な人間」「真っ黒な人間」を持ってくる必要はないということです。(それはしばしばしがちなことではありますが)
 結局、上に書いたようなことを理解していれば、一時は気も昂ぶるでしょうが「罪を憎んで人を憎まず」に近づくことはできると思います。気に入らない人間を「邪悪」とか呼ばなくて済むのです。そしていらないことで親しい人間も失わなくて良くなるかもしれません。


 相手のことが一から十までわかるというようなことはあり得ないと私は諦観するほうです。自分のことだってそんなにはわかっていないかもしれないと思います。誰かの「意図」がわかったようになる気はしても、それが絶対確実なものとは思わないようにもします。
 相手の心に立ち入って批判するということは、それはむしろ無謀な、思い込みの、独りよがりの行為なのではないでしょうか?
 やはり誰かを批難したりするのは、その人が為したことを対象に止めるのが「大人のやり方」だと思います。歳だけくってあまり自分が大人に思えないこともたびたびですが、これに気をつけているだけで、少しは自分が大人かもしれないと感じることができるのでした…。