Gift of Life

 臓器移植法案の改正案が衆院を通過してから、あちこち回ってこの件についてのいろいろなお考えなどを読ませていただいています。そうやってたまたま出会ったご意見
 ⇒臓器移植法案 A案が衆議院で可決されました。(今日の小児科医の日記)
 とてもまっとうなご意見で共感するところも多かったのですが、一カ所だけ気になったところがありました。

欧米ではgift of lifeとも言われますが、自分のこどもの臓器で別のこどもが幸せに暮らせるのならば、と思えるか、それぞれが納得出来るかどうかということです。

 こちらの表現は、欧米ではgift of lifeという言葉があり、その言葉のように自分のこどもの臓器で別のこどもが幸せに暮らせるのならば、と思えるご両親が多くいらっしゃるが、それと同じように日本の親御さんたちは納得できるだろうか?というご主旨であると読めました。
 実はこの臓器移植に絡めて語られる"gift of life"が本当に欧米で人口に膾炙しているものなのか、ということを取り上げて書かれた文章(10年前のもの)を長く保存していて、折に触れ考えていたのです。書かれたのはドイツ在住のジャーナリスト美濃口坦氏。題名は「「臓器移植」の文化論」です。
 自分で持っていた文章(プリントしたもの)にはメールマガジン「Navigator」の「独逸回覧記」から転載としか書いていなかったのですが、思いついてネットで検索してみたところ、ご自身がこの文章をサイトにアップしておられました。以下のところで全文が読めます。
 ⇒美濃口坦「臓器移植」の文化論


 これが書かれたのはまさに日本で最初の臓器移植事例があった1999年です。美濃口氏は次のようにおっしゃいます。

 日本で臓器移植というと「いのちの贈りもの」とか「いのちのリレー」とかいった表現がよく使われる。死んだ息子の心臓が別の人に移り生き続けるとか、息子の命がその人の命と合体するといった考え方が表現されているのではないのだろうか。実際、日本移植者協議会は次のように説明している。

「Gift of Life(いのちの贈りもの)」とは− 「ギフト・オブ・ライフ」とは、いのちの贈りもの、という意味です。生命(いのち)の贈りもの−永遠に生き続けることのできない人間。しかし、いのちは様々な形になって人から人へと伝わり生き続けます。この運動は、欧米で始まりました。……

 本当に欧米諸国の臓器移植は、このような「いのちの贈りもの」的考え方に基づいて展開されてきたのだろうか。欧米と一口にいっても色々な国があるが、この点については少なくとも、ドイツに関して私は以前から疑問に感じている。


 ためしにドイツで臓器移植の啓蒙活動をするドイツ移植財団(DSO)に尋ねた。電話に出た広報担当ヴィクトリア・ローゼンベルクさんは、
「『いのちの贈りもの』という表現が今までドイツの移植関係で使われたことは一度もなかったと思う」
 といって、この数年来使われている以下のスローガンを紹介してくれた。


  A 「死んだ後に命を助けよう」
  B 「臓器の寄付は命を救う」
  C 「臓器の寄付 − 命を贈れ」


 彼女は日本的「いのちの贈りもの」にコトバの上だけでは C が近いかもしれないが、意味がかなり異なると断言した。


 彼女の説明によると、英語に近いドイツ語にも「ギフト・オブ・ライフ」、「いのちの贈りもの」という言い方はある。感謝の気持をこめて自分が生きていることをあらためて表現するときに使われる。あらためてというのは、例えば死にかかったけれど助かったという場合である。
 C の「命を贈る」だが、例えば誰かの命を奪うことができるのに、それをしなかったという意味で使われる。上記の「命を贈れ」という日本語訳は、ドナーが自分の命を捧げることになってしまうかもしれないが、これは私がわざと直訳のままにしたからである。


 つまり C の「命を贈れ」も正しく訳すれば「命を助けろ」になってしまうのである。ということは、C も A や B と同じようにレシピエント(臓器を移植される人)の命が問題にされていることになる。ローゼンベルクさんは、
「『いのちのリレー』は聞いたことがないし、同じ心臓を三人目、四人目と移植していく誤解を招く。日本では本当にそんな事例があったのでしょうか」
 と逆に尋ねられた。


 いずれにしろ、上記ドイツのスローガン A、B、C にある「命」とは臓器を受けるレシピエントの命で、死にかかっていたのに移植で助けられる命である。それは決して臓器提供者ドナーの命ではない。


 それに対して、日本でいわれる「いのちの贈りもの」とか「いのちのリレー」の「いのち」とはドナーの命でもあり、同時にレシピエントの命でもある。というのは、日本移植者協議会が上記引用した解説に「しかし、いのちは様々な形になって人から人へと伝わり生き続けます」と書いてあるからである。

 引用はここまでにしますが、興味のあるかたは全文をお読みになればと思います。


 この文章で美濃口氏は、ドイツの親御さんたちでも別に特に隣人愛的観点が強くてドナーとなっている(そのため日本よりも移植例が多い)というようには考えておられません。
 むしろ「命の贈り物」「いのちのリレー」という表現で、移植される臓器を「いのち」全体として捉え、それが他の「いのち」とつながっていくというイメージ、そしてそのイメージによる移植医療の推進などは特に日本の風土にマッチしたものなのではないか、という考察をなさっています。


 そして、私が長くこの文章を持っていたのは、次の部分が非常に心に残ってしまっていたからです。

 不幸にも病院で亡くなった日本人の女性がいた。臨終の場にいた私の知人の日本人女性が「親友にあの世にはきちんと旅立って欲しい」と思った。そこで友人の闘病と苦痛の痕跡を残す顔を「少しでも美しくしてあげよう」としたときに、病院から連絡で役所が派遣した「死体手入れ係り」が現れた。


 その後、彼女は親友の遺体にいっさい触れることができなくなった。彼女はそれでもあきらめずに何とかしようとするが、叱責と警告を受けるだけであったそうだ。結局彼女ができたことといえば、「死体手入れ係り」の指示に従って、衣服を手渡すくらいであった。彼女は今でも、「本当にしてあげたかったことができなかった」と嘆いている。


 以上の例からわかるように、遺体に対して、死後ドイツより長い間、濃厚で親密な感情を抱く日本人から見れば、「死」という事件の後のプロセスがドイツと日本とでは異なるのである。


 私は早過ぎると感じ、知人の日本人女性には忘れることのできない精神的衝撃であったが、ドイツ人は、こんな(日本人から見れば)遥かに早い時期に遺体を取り上げられることを何も変に思わないのである。


 ドイツ、恐らくヨーロッパの脳死臓器摘出と移植は、このように極めて早い時点で遺体が死体になり、国家の管轄下に入る体制のなかで発展することができたのである。

 家人、あるいは友人・関係者が死化粧をすることも許されないドイツ。「おくりびと」に描かれる情景とは全く異なる風土というものも考えなければ、臓器移植医療の進展の度合いなども簡単に比較できないなあと思うのです。