裸の理由

Lady Godiva

 王様は裸だ!と言ったあの少年。
 もっぱら今の私たちは「権力に溺れた者が盲目になっている譬喩」としてアンデルセンの物語を受け取っています。でももしあのお話の前の部分、二人の詐欺師とその意図がそこに書かれていなかったとしたらどうでしょう?
 王様が何らかの理由で裸(下着姿)で歩いていたとして、頑是ない子供が「裸だ!裸だ!」と声をあげます。あるいはそこで返ってくる言葉は「そうだよ。だから何?」かもしれません。もしくは「見たのか、馬鹿!」だったとしたら…。


 あるいはあのゴダイヴァ夫人の話が思い起こされるかもしれません。伝説では彼女は民衆のために裸で馬に乗ってコヴェントリーの街をまわりました。それを覗き見た仕立屋のトムは、Peeping Tomとして後世に悪名を残すことに*1
 もちろんトムには止むに止まれぬ個人的な理由があって覗いたわけですが(笑)、何も知らない少年がLady Godivaは裸だ!と叫んだとして、それは必ずしも「無垢な子供が真実を言い当てた」という話にはならないわけです。


 小さい頃私が初めて茶道というものを見た時、それはかなり大人数で正式な茶会ではなかったのでしたが、何か粉を茶碗に入れ、お湯を注いでかき回し、それをいただく図がよくわかりませんでした。そして茶碗に入れる粉がお茶であると聞いたとき、私はそれを「インスタントコーヒーと同じもの」としか理解できなかったのでした。もしあの時、「お茶なんてインスタントの飲み物じゃん!」と私が声をあげていたとしたら…。


 何事ももったいをつけることを嫌がるというポーズがあります。そういうポーズの方は「赤裸々な事実」といったものを殊更言い立てる傾向があるように思えますが、結局人間の文化というものはそれでは理解できないということを忘れてそう言っているだけなのでしょう。実際に行われている行為を超えた「所作の意味」であるとか、「背景の思想、考え方」であるとかいったものが文化を作っているのです。
 無理にそれを理解しろとは誰にも言えないでしょうが、せめて知らないなら見守るべきという状況はいくらもあるでしょう。じっと見ていればわかるかもしれません。もしわからないにしろ、それを自分の理解の届く知識だけで解釈し口にするというのは、往々にして浅薄で失礼なことかもしれないと意識すべきではないでしょうか。


 宗教的行為だって、その象徴的意味を除いて見ると全く精気を失ってしまいます。自分がその中で育った文化・宗教伝統のことは誰もが当たり前と認識するのですが、その枠組みを一歩出ると本当にわからないものです。
 メアリー・ダグラスが『象徴としての身体』で喝破したように、クリスチャニティー伝統の中の儀礼といわゆる未開の部族の儀礼と、実は象徴的次元での意味合いにほとんど根本的な違いはなかったのですから。


 王様は裸だ!と少年のように叫ぶ前に(もちろんその行為が意義を持つケースもあるのですが)、なぜ王様が裸なのか、皆はどう思っているのかを考えてみるということが必要な場合もやはり多くあるのです。この間のお札の件(実はまだこだわっている 笑)以来、そんなことがつらつら思われています。

*1:もちろんこれも伝説。10世紀から11世紀を生きたLady Godivaのお話に、裸で馬に乗る話が出てきたのが彼女が死んだ1世紀も後。ピーピングトムの話はさらに数百年の後、17世紀あたりまでに付け加えられたそうです。