マ王の原則倫理

 ちょこちょこ『今日からマ王』の第一期再放送を見ているのですが、マ王陛下はどうにも危なっかしく「それはないだろー」的な行動を取られるので(歳の所為か)若干いらっとします。よくよく考えてみると彼は一途に「原則倫理」の立場を取っているんですね。

原則倫理
・何よりも自らの信じる倫理原則に従うことが重要 
・その結果が思わしくなくとも甘受する

 でも「自分の正しいと信ずるところに従い、時に自己犠牲的で、結果の良し悪しには拘泥せずに行為する」という主人公像はたぶんアニメやラノベの多くのものに共通するものです。単に主人公が「若い」(あるいは幼い)からこうなっているところもあるでしょう。
 その時の状況を的確に判断し、最善(もしくは選べる限り善)な選択をするというキャラクターこそおそらく自分が考える最もまともな主人公像ですので、ギャップで思わず声が出てしまうということなのだと思います。


 たとえば渋谷有利がグウェンダルと一緒に囚われてしまったケース。形だけでもグウェンダルを傷つけ、有利だけが許されて解放されるという選択肢が出てきます。でも絶対に彼は自分だけ助かろうとはしないんですね。
「何も殺せとは言っていない」ので、ここは方便でも有利だけ(王様ですし)逃げのびて欲しいとグウェンダルはまず考えるわけです。大人の考え方でしょう。これは「状況倫理」的な発想です。

状況倫理
・原則ではなく状況が行為の善悪を決定する 
・結果が良ければその行為は善とされる

 しかし有利はそういう妥協をしませんし、おそらく彼や彼に似た真っ直ぐな主人公たちが大向こうに受けるのもその潔癖性、無謀なほどに筋を曲げないところにあるのかなとも思います。
 現実にはなかなかこういう生き方を通すことはできません。それだけに(若い、理想の)主人公に仮託して、「原則倫理」を貫く生き方に快哉を叫ぶ人が多いのかもしれないと感じました。
 でも筋を曲げたくないと突っ張って、1クールも終わらないうちに主人公が死んでしまったとしたらお話はそこで終わりです(一応)。もちろん有利にはほとんどチートなまでの魔力という切り札がありますし、そういうチートがない多くの主人公たちにおいては「作者の見えざる手」という偶然のラッキーが働いて、大体において無茶は通るようになっています。
 今の私にはそれがあまりにご都合主義に見えてしまうんです。だから「歳かな」と苦笑いをしてしまうわけで、確か昔の自分はこういう見方をしなかったなあとも。


 信ずれば通ずる、というような精神主義が若さの可能性を引き出すものでもあることは認めます。ただそうしたものは無茶・無謀と紙一重です。そういうものばかりが「良し」とされるストーリーに浸りすぎますと、実生活でも原則倫理から抜けられなくなるか、あるいは状況を見た「不純」で「ずるい」判断をしてしまったなどと無駄に自分の中に鬱屈をためてしまうことにもなりかねません。
 大抵は「原則倫理」の主人公の傍に「状況倫理」の大人がいて、バランスをとりつつ「原則倫理」万歳になったりする作劇が多いのですが、考えようによってはゲーム脳(笑)なんかよりこちらの方が罪深いかもしれないとちょっと思いました。


 理想を言い立てて、状況に配慮しないことをむしろ誇るようなそういう大人も少し目立つなあと感じられたりします。それは決して常に良いことではない、と思う私のような人間は多くないのでしょうか?
 偏り過ぎは何につけても良くないこと。ただ、バランスの取れた賢い主人公は見ていてハラハラしませんし、おそらくあんまり受けないんでしょうね。難しいところです。