人を裁くのをいやがる人たち

 ⇒裁判員裁判 初日の審理終わるNHKニュース)
 裁判員制度が今日から開始したというニュースを見ました。今回は候補者にはなっていませんので、自分が選ばれるかどうかは先の話になりますが興味深く拝見。


 妙だなと思ってしまったのは、裁判員制度反対の市民グループとかの人が「人を裁くことを強制されるのは思想・信条の自由に違反する」と言っていたことと、候補者として呼ばれ抽選に漏れた一人の方が「人を裁く」ことを押しつけられるのはいやだと思っていたなどと語られていたことです。
 どうやら反対する向きのキーワードは「人を裁く」ということのようですが、この社会から第三者による「裁き」をすべて廃してうまくやっていけるとお考えなのでしょうか?


 自分ではいやだと思っても、社会に必要なものであると他者に委託しているのなら同じなんじゃないかと私には思えます。自分の手は汚したくないから誰かに押しつけるというのではあまりに勝手。
 今までとは違って、一般市民も責務の一端を直接に負うことができるようになるのは悪いこととは思えません。何も毎回呼び出されるわけでもなく、確率から言って生涯に一度(もしかしたら二度)ぐらいのものではありませんか。


 「人を裁く」のを躊躇うのは、もしかしたら間違いがあるかもしれない、完全完璧にそれをこなせないかもしれない…ということなのかとも思います。しかし今までの裁判がすべて完璧であったわけもありません。間違いがあれば可能な限り修正しつつより間違いが少なくなるように努力する。それで行くしかないのだと考えます。裁きがない、無くて良い社会が今日明日にも出来るとは思えませんから。
 完全じゃない、理想的じゃないと他者を難詰する傾向にある方ほどこれを忌避したがるんじゃないだろうかとちょっと思えました。自分は責任のない大所高所から人を批難するだけ、そんなことは決して正しいことではないんですよ。
 人間には間違いがある、限界があるのは当然のこと。それでも「第三者による審判」が必要だからこそ、社会的にこのシステムは構築されなければならないんじゃないでしょうか。そして法曹関係者だけに任せて、結果論で失敗したらそれをなじるだけというよりも、自分たちも責任を部分的にも分かち合う方向で参加する方が「監視」もできますし「是正」もできると私などは思います。それが社会に必要なものだとすれば、その構成員である自分が全くそこに関わらず責任もないというのはもともと錯誤なのですから。


 「まず罪無き者より…」というのはあくまで宗教的言説です。近代社会はそれとは異なる次元で第三者による裁定を必要としていると考えます。そしてその制度を肯定する以上、そこで責任の一端を持ってくれという要請には正面から応えるべきであろうとも。(しかも決して何度もお話があるわけじゃないんです)


 私は、この裁判員制度が定着することになったら、死刑判決はむしろ減少するのではないかと想像します。そういう形で慎重な判断が増えるのであれば、それもまた民意の反映ということになるでしょう。こういう貴重な機会を手にする前に反対するというのはどうしてもその気持ちがよくわからないですね。
 忙しいとか面倒くさいとか、あるいは文句だけつけたいとかいう本心の単なる言い訳として「人を裁くのはいかがなものか」なんて言っている人は軽蔑します。どれだけそういう方がいらっしゃるかはわかりませんが。
 完璧じゃないから、一人では判断を任されないんです。専門家もいます。万が一自分が間違っていても、周囲の人がフェイルセーフを働かせてくれるかもしれません。また逆に、自分がその引き留め役になれるかも。


 医療機関でのインフォームド・コンセントをいやがるおじいちゃんおばあちゃんもいますよね。責任を背負わされるかもしれないからって。でもああいう態度だけは取りたくないと、自分はそう思うんですね。