政治利用はもうたくさん
もう靖国神社のことは放っておいてあげればいいのにと思います。
今現在、新たに戦前あの神社が持っていた役割を復活させる意味はないでしょう。戦死者・戦没者の方々に慰霊・記念の建物が欲しい、国が追悼すべきという方が多いのなら、他の施設を考えればいいのです。
靖国神社はお墓でも何でもありません。あそこに戦死者が神として祀られていると考える方、亡くなる前に靖国のことを言っていたなあと記憶にあるご遺族の方々の(そういう人たちだけの)信仰の対象として考えてあげればよいのです。
あそこに(勝手に)身内の名前が入れられているのは気にくわないと騒ぐ人もいらっしゃるようですが、霊だの神だのというのはモノではありません。信じていなければ神棚のお札を石っころに換えてていたって何の罰もあたらないものなのです。自分の信仰がそこにはない、というのなら無視していれば何の問題も一切無いものです。
彼らのメモリアルとして、一つの信仰としてそこにあるならば誰の障りにもならないはずです。確かに一時「靖国国家護持」を唱える人も出てきましたが、結局民意はそこになかったのですしこれからもあろうとは思えません*1。
昭和の五十年代、六十年代以降は、むしろ護持派として靖国を象徴的に担ごうとする人たちよりも反対派・批判派として象徴的に利用しようとする人の方がメディアでも目立っているだけのように感じています。もうそういうのもリアリティを失っているだろうと私は考えます。
戦争犯罪だの悲惨さだのあまりに政治利用が過ぎて摩り切れそうになってきたのではないでしょうか。
もともと戦後、大戦以前の制度や文化などに象徴的に犯罪性・危険性などを唱える人たちの一部は、「徳治主義」「天命思想」的な政治利用を考えていたと思います。意識的、無意識的にいろいろあるでしょうが。
つまりそれらの裏返しで、「道徳的に正しくなかった戦前の政権」を引き継ぐ現政権は正統性が無い。自分たちがそれをひっくり返せば、道徳的に裏打ちされた(すなわち天意にかなった)「正統」な政権になる。
煎じ詰めるとそういうことでしょう。戦争までのあらゆることに非をならすのが自分たちの正しさ、正統性の証明というわけです。
しかしながらすでに時は相当過ぎてしまいました。戦争に直接関わった方は亡くなられたか、存命でも80歳を越えられています。歴史的検証は当然あるべきですが、今さら断罪したり道徳的に責めても意味がなくなっているのです。それに気付かないでいまだに功利的に糾弾を続ける人がいるのにはもうあきれるしか…
静かに歴史を見ることがなにより必要なのです。個人的には、批判派でも肯定派でも靖国を担いで徒に騒ぐ人はもうあまり見たくもないという感じでいます。
放っておいてあげましょう。それを拠り所とする方の信仰をいじるのはできるだけやめて。愚考権の一つの形だぐらいに思っていても結構ですから。
*1:もちろん私も万が一そういうケースにまたなったなら批判は厭いません。でも枯れ尾花に騒ぎたくもないのです