宗教的な「ずらし」

 宗教的な価値観は、世俗の価値観とは違った尺度を与えてくれます。社会の中で不遇をかこつ人、通常の尺度では浮かばれない人、腹が立って仕方が無い人などに別のものの見方をさせてくれる可能性があるのです。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄悪人正機)というような決定的な「ずらし」が、造像起塔もできないような貧しい庶民(=悪人)こそ救われるという価値の転倒によって希望を与えてくれます。
 「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」とか「悲しんでいる人たちはさいわいである、彼らは慰められるであろう」(マタイによる福音書)とかいうのも同様の「ずらし」ですね。
 スピリチュアリズムにこうした「ずらし」を感じ取る人もいるでしょう。たとえば「正しい人」が報われないということにストレスがある生真面目な人などが、一見すぐには報われていないようでも実は後で…とか「悪い人」はちょっと得をしているようでも結局そのうち…とか考えることで慰謝を感じるなんてことはありそうですね。*1


 でもこうした「ずらし」で得た新たな尺度を絶対視してしまうならば、それは結局世俗の基準を絶対視するような人と変わらないことにもなりかねません。せっかく一つのくびきから自由になれたのに、再び別のくびきに自ら首を突っ込むというのも傍で見ていれば可哀想なことに思えてしまいます。
 また自分の都合の良いように「ずらし」た発想ばかりしていれば、それはもう自分中心の勝手な思考と何ら変わらなくなるのではないかとも。
 それゆえ「それにもしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です」(ローマの信徒への手紙)とか、「弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ほこりとて往生かなふべからずといふこと。この條、本願をうたがふ、善悪の宿業をこゝろえざるなり。」(歎異抄:本願誇り)といったような「釘」も同時にさされているのでしょう。


 もっとも、「本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。」(歎異抄)というように、「本願誇り」をしてしまうほどの人こそ(真に苦しんでいて)信心を必要とする人だとも言えるわけでして、宗教的にはさらに一回りひねりが入るところではないかなとも感じます。
 「こころ貧しい人たちはさいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書)というのも、まさにこうした微妙な構図を言い表しているのかなと考えるのですが。

 Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
(マタイ5:3)

*1:ここでの正しいとか悪いとかいうのは結構恣意的なものでしょう。ただし当人が感じるストレスだけは本当のものとなります。