報われる

 先日、NHK映像ファイル『あの人に会いたい』という10分番組で沢村貞子さんの回があり、録画していたのをちょっと間をおいて視聴したのですが、思わず泣けるようなことを語ってらっしゃいました。報われた人生だったんじゃないかと、そう思えました。
 この番組は物故した有名人の方々のインタビュー映像(NHKに残っているもの)をつなげて作っているものです。時々拝見しているのですが、本当に素晴らしい文句なんかに会えることもありこの頃好きな番組の一つです。


 沢村貞子さんのお名前を憶えたのはたぶん母が買っていた『暮らしの手帖』(第二世紀)をよく読んでいたからです。連載のエッセイとして『私の浅草』も目にしていたのでしょうけれど、記憶にあるのは『私の台所』ですね。後に朝の連ドラで「おていちゃん」(昭53)を見たあたりで、ようやくあのテレビの女優さんとエッセイストの沢村貞子さんが頭の中で一致したという次第。
 私は本当に時々の映像とエッセイだけでしかお会いできませんでしたが、「明治女」というきりっと背筋の通った存在を感じさせてくださるような方だったと感じています。


 沢村貞子さんが生まれたのは1908年(明治41年)です。お父さんは狂言作者の竹芝伝蔵さんということですが、それよりお兄さんが役者・俳優の沢村国太郎さん(その息子が長門裕之津川雅彦さん)、弟も俳優の加東大介さんという方が通りがいいと思います。また28歳で俳優の藤原釜足さんと結婚もなさっていました。
 「おていちゃん」のイメージに多少引きずられますが、若い頃からはきはきして聡明な下町娘でいらっしゃったことは確かなようで、府立一女を出た後、当時としてはめずらしく日本女子大師範の家政学部まで進まれます。
 しかし在学中(昭和4年)にプロレタリア演劇運動で有名な「新築地劇団」へと転身。結局女子大は中退ということになったのでした。

 「働いている人がみんな幸せになる」っていうのがね、そのための芝居っていうんで、とっても私いいと思ったんですよね。だから一生懸命やったんです。

 お言葉からも、思想や理屈というよりも持ち前の正義感みたいなもので芝居の世界に飛び込んだのが感じられました。でもちょうど時代は統制的になっていく頃合いで、治安維持法が出来、沢村さんも引っ張られてしまうのです…。

 ただ「どうもあいすいません。二度としません」って書けっていうんですよ。
 ちょっとそれを書きにくかったんですよ。
 下町女って、そういうとこありますよね。

 ということで何度か引っ張られて留置され、都合1年8ヶ月も拘留されたことになるとご本人はおっしゃっていました。傍からみれば「筋金入り」という感じでもありますが、ただただ曲がったことがお嫌いだったということなのでしょう。なかなか真似のできるようなことではありません。
 それで放免された後、お兄さんを頼って撮影所に入り映画女優になられます。藤原釜足さんと結婚なさったのもこの時期です*1
 ところが沢村さん38歳のとき、駆け落ち同然で藤原さんの元を去り、新聞記者の大橋恭彦さんと所帯を持つのです。一世一代のロマンスというところ。でもその旦那の大橋さんが記者を辞め独立し、映画雑誌『映画藝術』を創刊することになってからはいろいろご苦労も多かったようです。沢村さんが芝居で稼ぐお金が無ければこの雑誌は続けられなかったようですし、物心両面で旦那さんを支えたということです。(沢村さんがエッセイを書き始め、続けられたのも旦那さんの雑誌作りを助けるためでした)

 私は女優の才能はね、あんまり無いと思ってましたし、でも、ほら何かしなくちゃ、いつまでもね、だから一生懸命女優をやりましょうと。それには、ね、もう長年いろんなこと見てきたから。役者というのはいかに、何という華やかな、何という楽しい、何という悲しい、何という切ない商売だろうって。
 どんどんどんどん歳取っていきますもん。で、華がなけりゃ駄目なんだし。で、華がある人でも歳取っていくと駄目なんだし。一生やるってことにはいかないけど。(でも)どうも私は、あの、一生、やりそうだしね。こんなことしてるよりしょうがない…。こんなことって言っちゃ悪いけど(苦笑)仕方ないし…だからそいで「脇役になりたい」って言ったんです。脇役志願して、そいで怒られて。
 「せっかく主役にしようというのに何が脇役だ。ちょっとだけ何かやって楽に金取るつもりか」なんて叱られたり(笑)いろいろありましたァね。
 そのかわりね、時間に遅れない。セリフは憶える。人の五倍は勉強する。なぜって私は才能が無いから。
 五倍ぐらい勉強しないとね、駄目だから。一生懸命やろうということだけは、決めたんです。

 沢村さんは人一倍真面目にやろうと女優を続けられましたが、同時に旦那さんとの家庭生活もそれは大事にされ、二泊以上の仕事は全部断り、必ず旦那さんのために毎日台所に立たれたといいます。しかも二日とおなじ献立は繰り返さないように…。ここらへんがいかにも明治女の気っ風という感じですね。

 女房を外で働かすと、(昔は)男は甲斐性が無いって言われたんです。仲良くしている新聞記者の人たちでも、「あんたはいいよね。女房が働くから」って言われてて、とっても気の毒でね。
 と言って私が働かなけりゃ雑誌ができないし。
 だからそのー、プライドをね、傷つけないように。うちではもう何もかもあの人が第一。好きなだけねぇ、えばってもらいました。


 平成元年、八十になられた時に沢村さんは女優を引退され、湘南の海の見える家で旦那さんと老後の生活に入られました。そして八十五になって、旦那さんに先立たれます…。
 その遺品の中から、旦那さんが密かに書いていた原稿が見つかったそうです。

 ――何て書いてありました?


 こんなね、楽しい老後があるとは思わなかったって。
 いろいろ書いてあってね、そして…
「これはみんなね、やさしくて頭のいいてい子のおかげだ」って…。
 もうびっくり仰天。そんなこと言われたことないから。


「ぼくは幸せだった」って。
 ま、とっても嬉しくなっちゃってね、涙がとまらなくなっちゃったの。
 …そんなこと言われたことないんですもの。


 でもね、私はね、若い時から、「一生懸命働く人たちが幸せになるように」っていう運動にね、自分が、その何かできないかと思って、一生懸命やったけど何にもできなかった…。誰も幸せになんかできなかった…。


 でも、一人だけ幸せにできたわけよね。
 だからお閻魔さまにもそう言わなくちゃ。
「一人だけ幸せにしましたよ」って言わなくちゃね…


 沢村貞子(1908-1996)

*1:藤原さんはこれが再婚でした