バイキンマンは死なない

 もしバイキンマンが宇宙から来たある種の細菌、単細胞生物だとしたら彼に死はやってきません。

 そもそもいったい死とは何であろうか。現代の生物学の知見が提出する、「死」というものについての次のような新しい見方がある。
 それによれば、死というものは「多細胞の」個体というものが成立するときに初めて生ずる。逆にいえば、分裂して増える単細胞生物は「死なない」。例えば、ゾウリムシAが何回分裂を繰り返しても、突然変異が起こらない限り、それは「同じ」ゾウリムシAなのだから、ゾウリムシAはずっと生きているのであり、死んでいない、ということになる。
広井良典『遺伝子の技術、遺伝子の思想 医療の変容と高齢化社会*1

 もちろんこうした単細胞生物が永遠不滅だということもなく、たとえばバイキンマンドキンちゃんあたりと接合することなく一定の期間を過ごせば、どこかで分裂することを止め死滅してしまうということもあり得るのでしょうが…。
  バイキンマンはあまりにキャラクターが立っていて、彼にパーソナリティが無いとはとても思えないのですがそこは宇宙生物のこと。今の常識とはかなりかけ離れた存在ということなのかもしれません。
 でも「個体」がなければ個体死もなく、老化による寿命というものから免れていると考えることは妥当なはず。個体死が区別されてあるのは多細胞生物だという話です。

 ところが、多細胞生物となり、雄と雌の個体が互いに半分ずつ遺伝子を交換し合って全く「新しい個体」を生み出し、自らは死んでいくとき、つまり、「性」ということを通じて世代交代が行われるようになったとき、そこに初めて「個体の死」というものが発生するのである。この意味で、多細胞の個体の成立ということと、「死」の誕生、そして「性」の発生、ということは重なり合っている。

 ここにおいて私たち人間を含む多細胞生物には寿命があり「個体死」がやってくるという話なのですが、人間のような生物においてはその生殖に絡む生と死のサイクルからも逸脱していると言われます。
 そしてその逸脱が「死の意識」を生み出しているのかもしれないのです。

 動物、例えば猫は、現に死ぬ。上の見解で言えば、猫は多細胞生物なのだから、当然そうなる。猫は死を経験する、といってもよいかもしれない。しかし猫は死を意識することはない。少なくとも、私たち人間がそうするようには。
 では、私たち人間はなぜいかにして「死」というものを意識するようになるのか。
 実は、先に「人間の寿命が後生殖期にまで及んでいること」、いい換えれば、産卵死するサケのように、個体が全くの遺伝子の支配下にある存在ではないことを、「遺伝子からの個体の自立」として理解した、あの議論がここでの問いに対する基本的な手がかりを与えてくれる。

 生殖サイクルが生き死にに深く関わる生物と違って、人間は生殖期を過ぎても生き続ける余剰な寿命を持っているようです。この「老後」こそが知識等の蓄積を生み、さらには文化・文明の成立を可能にしたものではないかとも思われます。

「遺伝子からの、個体の自立」を可能にさせるのは、一定以上の脳の発達と、それと並行する道具の発達、社会性の成立、そして言語の成立といった一連の互いに関連する事態であることは先に述べた。そして、これら一連の事態は、同時に「意識」の発生ということとも重なり合っている。
 遺伝子が、「生命」の論理というものを表わすとすれば、個体が遺伝子から独立するとは、ある意味で、個体が生命のもともとの流れから外へ「はみ出る」ことを意味している。あういは言い換えれば、それは個体が「意識」というものをもつことで「世界」から一歩外へ抜け出すことでもある。
 つまり、人間とはこのように、おおもとの「生命」の流れから、意識をもつことによって一部「はみ出てしまった」存在である。


 動物は、生命と(そして死とも)「ぴったり一致」している。例えば、生きている猫は生のその只中にあるのだし、死んでいる猫はまた死と完全に一致している。
 人間はそうではない。人間は生命の只中にあることから少しはずれ、いわば意識の余剰をもっている。そして、人間の意識が生命の本来の領域をはみ出るものであるからこそ、そこに死についての意識が生まれるのではないだろうか。

 夏の終わりに、勤め先の方が一人亡くなられました。
 死とはなんだろうと、特に秋の気配が感じられるこの季節には自然と思われます。それでごちゃごちゃ考えていたときにこの広井氏の本の一節がふと思い出されたのでした。そして読み返していたところで、アンパンマンバイキンマンネタの記事にふと目が引かれ、じゃあバイキンマンは死なないんだなあと思いついたのです。

 実際上は、生命からはみ出た存在であるということは、まさに先に述べた「寿命が後生殖期に及んでいること」、すなわち個体が単なる生存のための機械であることをやめ、本来の生命の機能からは必要でない時間――すなわち「老い」という時間――を生きる存在であることに等しい。動物には、偶発的な老いということはありえても、人間のように本来的に「老い」(後生殖期)の期間をもつということはない。こうした意味では、構造的に「老い」の時期をもつということと、意識そして「死の意識」をもつということは、相互に連動したヒト固有の現象である。

 この本の後半のかなりの部分、たぶん広井氏はある程度科学的な思考から逸脱して、氏独自の哲学的な思索を展開されているようです。それをどう受け取るかは読者に任されているとは思います。
 ただ氏が

 「老いの受容」あるいは「障害の受容」ということと、「死の受容」ということが重なっている

 と語られるところは、かなり示唆的で興味深いと思えたのでした。
 機会があれば手にとって読むに価する本でしょう。
 一人暮らしをしていると、時々こんなことに頭が占められてしまうものなのです。

*1:中公新書1306、1996