文化に上も下もないでしょ?

 ⇒文化の地域格差は人の格差か?はてブついでに覚書。)
 タイトルを見た瞬間に思ったことが「文化に上も下もないでしょうに」の一言。


 上だの下だの言えるのは、あくまで同じ基準の評価軸に乗っているものについてだけ。モンゴルの遊牧民の食文化と、ベトナム旧正月のお祭りと、チェコボヘミアガラスの伝統と、アメリカのヒップホップと、思いつきで挙げただけですがこういったものを比べて上だ下だと言えないのはもとより明らかです。
 文化の定義次第なのかもしれませんが、私にとって文化とは人が生きている環境に根付いた生き方の様式であって、はなから上下で比較できるようなものとは考えられません。
 もちろん同一の国の中で時代を同じくし、地域的にも近いとなればある程度比較の対象になってくるかもしれませんが、こんな小さな日本の国土の中だって歴史風俗も違えば自然環境も異なる地方は多くあるわけで、上下で比べることのできない違う文化と言えそうなものはいくらでもあります。


 この記事に出てくる「格差」っていうのは、どの地方に行っても時々見られる「自分のとこも東京になりたい」みたいな変な欲望が見せる擬似的な格差なんじゃないかと。
 人は他の人の欲望を自らの欲望にするもの。みんなが引き寄せられる(ように見える)対象に無自覚に欲望を沸き立たせられてしまうんだろうと思います。それはある程度仕方がないこととはいえ、東京を欲望の頂点とした得体のしれない序列なんて疑おうと思えばいくらでも疑えます。
 「みんな」が惹かれているとかいう「みんな」なんて自分で作ってしまっているものじゃないでしょうか?
 そしてそれに後付で理由がつけられていくのです。たとえばそれは「人の面白さ」だとか「人と人の関係」だとか。でもそういう何らかの理由が先にあって人が集まるのではなく、人が集まるからきっと面白いのだろう、凄いのだろうという認識の転倒がどこかに挟まっているのだと私は考えるのですが…


 文化的発信が多く行われるところへの憧れと模倣は、これは必ずあるものだとは思います。かつて都だった京の文化への憧れと模倣が全国的にあったように、今はその位置に首都圏の中央近辺があるのかもしれません。
 しかしながらそのかつての京都と今の東京の文化を比較して上下関係で見ることができないように、どこの地方の文化でも優劣を比べることなんてたぶんできないんですよ。
 もしそれができるように見えるならば、それは「東京になりたい」という欲望が勝ってしまっているから。各地の地方都市がその魅力を失ってきてしまったその奥にある一つの理由と全く同じものなのでしょうね。
 もちろん交通手段や通信手段の加速度的な発達が重要なポイントではあったと思います。それでも私は誰も彼も「自分のとこを東京にしたい」と無自覚に進めるべきではなかったと考えますが。


 あと、ここで引用されたものの範囲には限りますが、読んで思ったのが平田オリザってこの程度の人かという感想。「ミュージカルを観たり、美術展を観たり、海外に留学していたり」あるいは「永山則夫評伝劇」を授業でやるのが本当に「文化」的に素敵なことだと? それは一つの文化ではあろうかとは思いますが、他のものに比べて輝かしい高みに位置づけられるものとはちっとも思えません。
 まあでもこういう「勘違い」の欲望にも影響されるのが自分たち「普通の人」なのでしょうけど。


 都会が人を集めるのは、たぶんそこに幻想があるからです。まあそこに職がある、そこなら食べていけるという条件がどこかある(あった)というのがもっと基底的にあったのだとは思いますが。それだってある時代限定のお話かも。「都会へ行けば何とかなる」というのもすでに幻想ではないかと、職を得られずに都会で彷徨う人たちはうすうす気付いているのではないでしょうか。


 欲望というか幻想というか固定観念というか、そういったものに動かされてしまうのは仕方がないとは思いますが、ふとある時そこから離れることだって人にはできると思います。文化の上下を言うようになった時は、案外そこから離れてみる良い機会じゃないかとも感じるんですね。
 読む前に思ったよりはまっとうなことが書かれていたという印象なのですが、それでもどこか、何かが自分の認識とずれているなあと思えて、それで書いてみました。
 都会は駄目とか地方万歳とかはもちろんナイーブに言えたものではないのですが、少なくともその優劣を「文化」ということでは言いたくないなと(それは違うんじゃないかと)そう思っているのです。