教育が投資だとすると

 以前に、教育を投資とみなして云々する話を多く耳にして、教育は投資なんかじゃないのにといろいろ思い(ブログにも書こうかなんて考えていた)時がありました。そうやってうだうだ考えているうちに、ああそうかと、投資のリターンは子供にくる(受益者は子供)と考えるならば教育を(教育費を出す)親の投資と考えてもいいのかと何となく納得していまに至っています。
 自分への拠出はともかく、親が子供に与えるよう努める教育を「自分=親(たち)への投資」と考えるのは当然間違っていると思います。それは金主へのリターンを考えず、受取人を子供とする未来への投資と考える時にだけ意味を持ってくるのでしょう。もちろん世間体を考えるとか親の面子がどうことか、そういう卑小な意味も持つ場合はあり得ますが、基本的にそれは贈与のようなものでリターンを直接に期待するものとは到底言えないはずのもの。(直接のリターンを考えるならリスキー過ぎて投資家としては駄目駄目としか言えません)


 国の事業を考える時も、タックスペイヤー自体に直接リターンを期待するものとそうでないものは確実にあるのだろうと思います。ことに教育・研究に関わる出資のかなりの部分がそういう質のもので、米百俵じゃないですけれども「直接のリターン」ではなくて自分たちの社会(共同体)への将来的な「間接的リターン」を期待するとしか言えない性質のお金の出し方というものは考えられなければならないと考えます。
 蓮舫議員がお馬鹿に見えるのはまさにこういう点が考えられていなかったところにあるでしょう。


 何でもかんでもお金をかければ良いということではもちろんありません。その意味でリスクや将来性を考えた「投資」という言葉になぞらえられてしかるべき部分もあるこの教育や研究への出資は、目先のリターンを期待できないものだけに相当難しいものであると思われます。
 しかしながらこの誰かの「投資」のおかげで少しでも自分に益があったと感じることができる人は(もちろん私自身もその中に含まれますが)、また今度は他者への「投資」に賭けてみるモチベーションを得ることができるわけでして、このように無形のリターンを期待しない投資が世代を超えて続けられているのだと本当に思います。


 子供を育てることだって同じでしょう。それは直接のリターンを期待するものではなく、自分に返って来ないことを覚悟の上の未来への投資なのですから。