ニューメラシーの方向

 フィギュアスケートを見ていて(もちろんこれはどの競技でも同じなのですが)、彼女たちの緊張や心の動きが私には「わかる」ような気がしていました。またその躍動感や美しさなどの評価についても、限られた範囲ではありましょうが、何か共通の意味を受け取っているという思いはありました。
 心を知る(もしくは知ったつもりになる)ということ、同じ感動を共有する(もしくは共有を確信する)ということに関しては、言語が一義的なものではないという感を強くしています。


 人間が共通の言語を目指すというのは理想としては一つの考え方かもしれませんが、もしそうなっても「誤解」や行き違いから逃れられないと思いますし、相互理解はそちらの方向でなくても得られるではないかと、この頃国際間でのスポーツを見ながら時々考えます。


 むしろそういう言葉に関わるリテラシーは文化の根っこにかかわるものでもありますので、無理に統合や同化を図ることなくそれを多文化のままに残しつつ、たとえばニューメラシーで私たちが共通の世界を築いているように、別の次元で同じ基盤を考えていくのがスマートなやり方なのではないでしょうか。


 「読み書きソロバン」のうち「読み書き」がリテラシーで「ソロバン」はニューメラシー、という話を私が最初に知ったのは、仲本秀四郎『知・記号・コンピューター』丸善ライブラリー、1996、からでした。
 「リテラシー(literacy)」は文字通り(literal)もともと文字に関わるもので*1、読み書き能力というところから「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」としてこの頃盛んに使われています。
 それに対して「ニューメラシー(numeracy)」は数字(numero)*2に関わる能力で、「数え方・基礎計算能力」というものを意味しますがこの語についてはあまり語られることがありません。
 私たちはこの世界に多様なリテラシー(さまざまな言語・文字)を持ちますが、数字を扱う面ではほぼ一本化したニューメラシー(数について同じ数体系と記号が使われている)を用いていると言ってよいのではないかと思います。少なくとも国際社会では、大きな問題なく一つのニューメラシーが通用しているのです。


 スポーツでの体の表現というものと、抽象化された意味としての数字(の扱い)、それらの共有という事実が私たちの「相互理解」の方向に関して与えてくれる示唆は、実はかなり大きいものなのではないでしょうか?


 最後に仲本氏の本ではっとさせられた一節を…

 …さらに言及しておきたいのは、ニューメラシーの記号が「表意文字」であることである。表音文字が優れていて、表意文字もいずれ表音化するという大方に信じられている説に本書は異をとなえることになろう。表意文字は書くには不便でも、認知性が高く、一見して理解を促すところに大きな利点がある。
 …最近のコンピューターソフトウェアで、メニューが絵文字(アイコン)化していることも、この点を裏付け、意を強くしている。

*1:ラテン語のliteraに由来。これはアルファベット(文字)を意味する語

*2:numeroはもともとラテン語のnumerusの奪格。英語のnumberに相当し、No.というのはこのNumeroの省略形。仏語で「数字」はそのままnumeroという語

論争について(独り言)

 そしてさらに牽強付会に言葉を続けますと、愛・蔵太さんとtraviesoさん、さらにはuki_gumoさんを絡めた一連の論争で、結局話が収束していかなかったのには不満が残るところです。私は共通の何かを生むこともできたんじゃないかと思いました。


 どなたかがこのやり取りを「結局、誰でも偏見を持っているということ」みたいにまとめられていたのですが、それではあまりにも実りがない結論です。
 確かに私たちは不偏不党で語ることが困難ではあります。しかし求められているのは「全くのニュートラルな立場からの意見」なのでしょうか? 私はそうは思いませんし、そういうブログばかりになったら面白くないので読むのをやめてしまうでしょう。


 偏り自体は(メディアのように中立不偏を標榜しない限り)問題ではないと思っています。ただ一点、資料の扱い方とか、推論の立て方、結論の導き方などの「手段」の部分でのバイアスは、大いに問題視されるべきとは考えています。
 ですから今回のやり取りでは、各々のバイアスが問題なのではなくて、そういう偏りを超えたところで何か「資料批判」とかその「扱い方」「結論の出し方」で、一致点がでないかなと期待したのです。それができそうな方々のやり取りでしたから…。


 これはちょうど、多様な言語(リテラシー)の共存と一つのニューメラシーの共通認識という構図になぞらえることができる、そういう共通のものが収束点として欲しかったのだと、後付ですがそう思いました。

女子フィギュアスケート

 荒川選手おめでとう。もちろんそれも嬉しいのですが、見ていて一番ドラマを感じたのはイリーナ・スルツカヤの演技でした。凄みと緊張、意地と圧力、そして悲劇性。ラストの演技だっただけに、最後の最後まで自分の栄光、そしてロシア四冠の可能性を残していただけに、テレビのこちら側でこみ上げてくるものがありました。女子フィギュアのすべて選手のドラマが凝縮されたような、そういうクライマックスだったと思います。


 荒川選手は凄いです。SPの一位から三位まで、ミスをした人が負けと言われていた中で一人ミスのない演技。これはもう勝利の女神が後押ししたとしか思えません。本当に嬉しいでしょう。おめでとうございました。あまりに当たり前に勝ったようにも見え、むしろご本人が拍子抜けしているようにも…


 個人的には村主選手を一番応援していたのですが*1、メダルは取れなかったにせよ、観客へのアピールは今日の一番か二番です。この人はたぐい稀な精神力を持っているなあと感じます。
 安藤選手は気を取り直して捲土重来です。今回のオリンピックでは身体と頭の中がバランスを欠いていたように見えました。一から取り組みなおせば、もともと能力的には高いと思いますので次でも期待できるでしょう。(むしろ変な注目を浴びなくなるときがチャンスですよ)


 それにしてもこの大舞台で浅田真央の演技を見たかったという気持ちは未だに抜けません。順位とかメダルとかじゃなく、あの何か次元の違う軽やかさを、今無性に見てみたくなっています…

*1:知人に、いつも悲しそうな顔をしているうちのわんこが村主に似ていると言われたときから一番応援しているのです…笑