昭和天皇の靖国不参ニュース

 今まで靖国問題について書いてきた以上、これには触れなければならないでしょう。今朝日経新聞が「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ」という形でスクープ記事を発表しました。これを知ったのは今朝のテレビですが、各紙とも後追いで高いニュースバリューを認めた記事を書いています。


 私も最初は一瞬大きなニュースかと思ってしまった口ですが、よくよく見てみるとそう大きな波紋は拡げない類のニュースに思えます。それはこのニュースがいわゆる「靖国問題」、首相が靖国神社を参拝するのに対して中国が問題視している、ということの本質にはほとんど関わりがないからです。靖国問題を内政問題と限定して考えてみても、首相が参拝を個人の信仰と言っている限り、このニュースがそこに構造的に関わるといったことは有り得ません。


 私の捉え方では宗教法人靖国神社に参拝するしないは個々の人間の自由に任される行為であり、政治がそれに介入するというのは筋違いだと考えます。たとえ中国政府がそれを問題視しようが、個々の信仰のレベルのことに政府が介入するわけにはいかないという答えしか日本政府には言って欲しくないのです。それが筋というものでしょう。


 このニュースで動揺する(かもしれない)層はかなり限定的です。自分と靖国(信仰)の間(もしくは近傍)に「天皇」・「天皇制」というものを考えている方々、さらにはその中でも昭和天皇個人に対する特別な感情を靖国信仰に絡めて考えていらっしゃる方々のみが、この件で自らの信仰を振り返る契機を持つのだと思います。
 つまりざっくり図式化しますと、靖国信仰に社会性を強く考える人と個人性を考える人で前者が、そして社会的な靖国信仰で天皇制との関わりを重視する人とそうでない人の前者が、さらに言えばそこで昭和天皇個人に思い入れを強く持つ人とそうでない人のうちの前者のみが、このニュースで信仰に揺らぎを覚えるかもしれないということです。


 もちろん宣伝として象徴的には使われ得るネタではありますが、実際には影響はそれほどないという感じを受けます。今、靖国神社に参拝される方(信仰の有無は別としましても)では、いわゆるA級戦犯とされた方々をお参りしていると意識されない方が大多数なんですよ。社会的な靖国神社の布置にのみ興味を持たれる方(これは首相参拝批判派に多いと思いますが)には、天皇と切り離した靖国信仰というものがあまりピンとこないかもしれないのですが、神道的な信仰の中で実際に皇室と離れて存在し得ないものというのは歴史的にもそれほど厚みを持つものではありません。たとえば伊勢神宮にしてももともとは私幣禁断(天皇以外はお供え物をして祈願するのは禁止)のところですし、一般の参拝、信仰を集めるようになっても、それは皇室とは全く異なる次元での民衆の信仰としてあったのです。御師勧進聖などの(非公認の)存在が深くそこにはあります。


 私が主張として守るべきと考える靖国信仰の次元は、制度としての靖国神社ではなく(由来云々はどうあれ)個々人の信仰の対象としてのそれです。そしてそれは、政治、政府、さらには他国の政府の思惑などに左右されてはならないものだと思うのです。この意味で、私は政治の次元で靖国分祀等を勧めようとする政治の介入に反対ですし、外交問題としてしかこの問題を見ないやり口に反対なのです。


 昭和天皇を個人的に崇敬なさる人以外には、案外上記ニュースは問題とされないのではないかと思います。首相の靖国参拝批判派の方々が思うほどには、靖国に参拝される方というのは一枚岩でもありませんし、天皇制ゆえに参拝するという人も多くはありませんよ。

徳治主義

 外交とは基本的に国同士の話し合いであると思います。にもかかわらず戦争が外交の一つの形態であると言われるのは、ほとんどの戦争が争う国々の間の外交という形をとった終戦・戦後処理で終結するものだからです(例外はジェノサイドなどが目的とされる場合)。外交が複数の国家の「話し合い」であるという基本線は、途中に恫喝や武力行使、制裁等々の力のぶつかり合いが挟まったとしても変わらないと見ることができます。そういう立場からすれば、戦争を含む様々な非言語的接触も、あくまでそれに続く「話し合い」を有利に進めるための手段として捉えられるのです。


 この見方に対する好悪はありましょうが、これは(国際)政治の中でしばしば見受けられる一側面であると私は考えます。しかし人命の価値が非常に高くなった近代国家において、この見方が表立って語られればそれはあまりにもスキャンダラスなことかもしれません。考えてみればイスラエルは、このむき出しの力の外交を比較的表に出している稀な国ではないでしょうか。


 古代儒家思想には「徳治主義」という基本的な立場がありました。

論語』(為政第二)
 子曰。爲政以徳。譬如北辰居其所。而衆星共之。
(子曰く、政をなすに徳をもってす。たとえば北辰のその所に居て衆星のこれに共(むか)うがごときなり。)


 子曰。道之以政。齊之以刑。民免而無恥。道之以徳。齊之以禮。有恥且格。
(子曰く、これを道(みちび)くに政をもってし、これを斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民免れて恥なし。これを道くに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば、恥ありてかつ格(ただ)し。)

 この孔子の言葉は民への支配は道徳を以ってなされなければならないという徳治主義の宣言であり、これは古代儒家思想を貫く根本的なアイディアの一つです。またこの考え方には

論語』(顔淵第十二)
 季康子問政於孔子孔子對曰。政者正也。子帥以正。孰敢不正。
(季康子、政を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、政なる者は正なり。子、帥(ひき)いるに正をもってすれば、たれかあえて正しからざらん。)

 というように支配者自身の道徳性を問題にするところが基本的にありまして、「為政者が率先して正しくあれば民も善となる」はずという前提が「正しくない為政者は良い政治ができない」という主張へのこだわりにつながり、この考え方の延長では政治(意識)は道徳と切り離されないものとしてあるしかないのです。


 これにより「中国思想、特に儒教にあっては、政治の領域と道徳の領域とは、おおむね未分化であった。政治学的な思考が中国で成立しにくかったことの理由はそこにある*1」などと言われるわけですが、振り返ってどうでしょう。儒家思想の本家本元の(はずの)中国の政治などよりはるかにこの日本で、今なお政治に「徳治主義」を求める人々が多いというのが実際なのではないでしょうか?


 政治家のスキャンダルが大体どの国でも問題になるというところから見ますと、何もそれは儒教の影響とばかりは言えませんが、聖人・君子でなければそれを叩く(叩くことにメディアも正当性を与える)という度合いはちょっと日本あたりは突出しているかなあとも感じますね。
 私は、政治の巧拙は冷静に見れば道徳とは異なる側面であると思っておりますので、やたら倫理的なことばかり言って政治家や外交官がつぶされるのにはちょっと賛成しかねるものです。それを無視してもいいとまでは思いませんけど。


 この「上に立つものに高い道徳性がまず求められる」という風潮が、実は昨日のあの萩本欽一氏の会見につながっていたのではないか、とまで考えるのは妄想でしょうか? 私にはいわゆる世間の「よき指導者像・親分像」におもねった部分が感じられてしまったのですが…

考えていなかったの?萩本さん!

欽ちゃん生出演「もう1度考えなきゃね」

 クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」を解散させることを明らかにした萩本欽一監督(65)が発表から一夜明けた20日朝、「みのもんた朝ズバッ!」(TBS系)に電話で生出演し「かわいい選手を1番悩ませちゃったのかもしれない。弱ったなあ。もう1度何か考えなきゃね、もう1つ頑張らなきゃ」と話し、決断に迷いを残した複雑な心境を吐露した。
 同監督は「どうやって謝るか言葉が見つからなくて、謝るときは気持ちよくと思い、やめますって言っちゃって…」と前日の解散宣言に至った経緯を説明。その後、ファンや周囲から寄せられた多くの留意の声に触れ「謝ってホッとするんじゃない。これから何かしなければと思ったよ。もう1回整理して…」などと自分に言い聞かせるように語った。
 吉本興業を解雇された元極楽とんぼ山本圭一に対しては「一緒にどっかで許してもらえたら。いずれどっかで野球始められたら…」と話した。

[ 日刊スポーツ 7月20日 10時7分 更新 ]

 で、結局反射的に行動したということが明かされたわけですが…


 これはもう信じられないですね。