李登輝氏の参拝

 台湾の李登輝前総統、靖国参拝の意向

 30日昼過ぎ来日した台湾の李登輝前総統は同日午前、台北から東京に向かう機内で同行の日本メディアの取材に応じ、6月9日までの訪日期間中、第2次大戦で日本軍人として戦死した兄がまつられている靖国神社の訪問を検討していることを明らかにした。


 李氏の兄はフィリピンで戦死したとされる。李氏は靖国参拝について「行く時間があるかないか、(日本に)行ってみないとわからない」としながら、「兄貴がまつられているのに行かないのは人情としても忍びないことだ」と話した。 (後略)
asahi.com 2007年05月30日13時06分)

 李登輝氏は昼過ぎに日本に着かれたのですね。ようこそ。
 さて、李登輝氏の来日を(どこか)政治問題化したがっている(ように思えてしまう)朝日の記事です。靖国参拝の意向…ときましたか。


 もとより靖国神社に参拝するしないは個人の「内面の自由」の範囲内のこと。何も騒ぎ立てることはありません。何でこれがニュースになるのか、妙ないきさつを御存じない方にはさっぱりわからないのではないかと思います。80過ぎの私人のおじいさんが神社に詣でるというただそれだけと思えばそれだけの話ですよ。
 こういうので騒げば騒ぐほど、何か「靖国神社は特別」というふうに思う人が増えるんです。特別と思わない人にとっては神社の一つに過ぎません。私人の参拝をどうのこうのいうのは悪趣味でしかないでしょう。

李登輝氏来日

 李登輝・台湾前総統きょう来日 文化交流目的の家族旅行で

■初の東京訪問や講演も


 台湾前総統の李登輝氏(84)が30日から6月9日まで訪日する。2000年5月の総統退任後、3度目の訪日だが、今回初めて東京を訪れるほか講演や記者会見も行う。曽文恵夫人なども同行する家族旅行で、李氏は今回の訪日を「文化と学術交流を目的とする私的な観光旅行」と位置付けている。


 中嶋嶺雄国際教養大学学長の招きに応じた今回の訪日は、04年末から05年初めに京都や金沢を旅行して以来。前回までの訪日はビザ(査証)が必要だったが、05年の法改正で台湾人旅行客にビザが免除されたため、今回は初のビザなし訪日となる。外務省は「総統を退任した私人」として訪日を静観する構えだ。


 李氏は台北から中華航空機で成田入り。6月1日に都内で後藤新平賞の授賞式の後、「後藤新平と私」と題する記念講演を行う。その後、6日まで李氏がかねて探訪を希望していた松尾芭蕉奥の細道」ゆかりの地、宮城、山形、岩手、秋田の各県を静かに訪れる。 (後略)
(FujiSankei Business i. 2007/5/30)

 意外なほどニュースにならないでいますね。ごく普通に来日して、ごく普通に楽しまれて、ごく普通に帰られるのが「当たり前」なのですから、何も不思議に思う必要はないのですが。かつての中国政府の空騒ぎが思い出されて、少し感慨も湧きます。
 昼前にはもう着かれるのでしょうか。今日、明日の天気はやや残念なものになりそうですが、週末は晴れるということですので、楽しい観光になるように願います。


 個人的にも「奥の細道」は何回かにわけて少し辿ってみたことがあります。あまりお金もかけない旅でしたが、結構印象は残っています。新緑の東北もいいものですから(たとえば列車の車窓から見える早苗の田はきれいです。「風が渡る」というのが本当の意味でわかります)、静かに堪能されますように。

かたはらいたし

 昨日は忙しくしていて、「慚愧に堪えない」という安倍総理の発言がああだこうだと言われていたのに気づくのが遅れました。結局言い間違いなしというところに落ち着いたと見るべきでしょうか。私は「自殺という事態を防げなかった自らの力の無さを恥じる」というあたりで読めば問題はないと思いますが、インタビューを再見して「この言葉を残念だとか無念だとかの言い換えとして使っている」>誤読だ、と思い込んだ方が意外に多かったのもわからないではないような気もしました*1。しかしいずれ微妙なものですから、鬼の首を取ったみたいに声をあげない方がよかったようにも感じます。


 おそらく幾人かの頭の中には柳美里氏の「ざんきに堪えない」発言の記憶があったのではないでしょうか。5年前の話です。

芥川賞作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんのデビュー小説「石に泳ぐ魚」をめぐって、モデルとされた女性がプライバシーの侵害だと訴えた裁判の最高裁判決が、9月24日に出ました。判決では柳さんの本の出版差し止めと慰謝料130万円の支払いを命じるものでした。
これまでにも、小説による人格侵害が争われた訴訟は、三島由紀夫の「宴のあと」、舟橋聖一「白い魔魚」、城山三郎「落日燃ゆ」、清水一行「捜査一課長」などがありますが、作家側勝訴するか、賠償命令が出るかで、「出版の差し止め」というのは初めてのケースです。
その判決を受けて午後3時から記者会見を行った柳さんは、
「判決は表現の自由を著しく侵害するものと言わざるをえず、慙愧(ざんき)に堪えない。」
と答えました。(後略)
 (道浦俊彦/とっておきの話 ◆ことばの話862より)

 これは明らかに文脈がおかしな言い間違いとできるケースでした。他を批難する言葉として使うのはさすがに無理なのです。今回はこれに比肩できるような単純なものではないでしょう。


 言葉は生き物とされ、言い間違いが主流となってそのまま定着してしまうケースもまれなものではありません。昔、予備校で古文を教えていた頃にはそのネタに不足することはありませんでした。話すとけっこう皆が驚いてくれるものでは、

 「あたらし」という形容詞は「新し」ではなかった。
 「新し」はもともと「あらたし」と読むもの。
 これが言い間違えられて「あたらし」でも通用するようになった。
 ただし音転倒が起きたのは平安以前のことで、これを誤用と見なくても何の問題もない。
 「あたらし」は上代ではもっぱら「惜し」という形容詞の方で使う読み。
(その後もこの言葉は消えていない)
 漢字の通り「あたらし」は惜しいという意味を持ち、「あたら若い命をなくして」
のような語幹の用例が今も残っている。

 というものがありました。


 また、現在ほとんど定着している顕著な言い間違いに「かたはらいたし」があります。これはもともと「カタライタシ」と発音されるべきで、「傍痛し」なのです。
 「そば(傍ら)で見ていてはらはらする、いたたまれない感じを受ける」のがこの語のもともとの語感で、これから、相手の動作に対しての感情として「みっともない」「気の毒である」、自分の動作が見聞きされて「恥ずかしい」などの意味が出てきます。
 たとえば、自分のサイトでろくにできてもいないことを他の人のところに行ってご立派そうにとうとうと語るブロガーは「かたはらいたい」のです。ダブスタがいけないというより、それは見ていて恥ずかしく、気の毒に思えたりするというもの。
 この誤用には定型化した時代劇の悪人の台詞が大きく影響を与えたのではないかと思っていますが、少なくとも「片腹いたし」などと表記することだけは避けるのが無難でしょう。それはやはり恥ずかしい(=かたはらいたき)ことなのですから。

*1:インタビューでの口調から。でもこれを文字化したときにはこれでは簡単に突っ込めません。