AIは何の略語?

積ん読

 クローン羊ドリーの産みの親イアン・ウィルムット博士が来日された際、氏の講演に紛れ込んだことがありました。右も左もよくわからないままその場の言葉をただただ拝聴していると、しきりに「AI」という言葉が交わされています。これなら少しはわかるか、と思って聞いても何だか話があさって。


 よくよく伺っていたら、ここでは当然ながら「エー・アイ」は「Artificial Insemination」(人工授精)のことなのでした。最初にそれに気付かないとはおめでたすぎる…と自分でも思いましたが、緊張しているときは往々にしてバカになるもの。
 それがわかってからは少し立ち直って、まあついていけないところも無理して最後まで参加していました。下手に「Artificial Intelligence」のつもりで誰かに話しかけなくてよかった…と脇の下に汗をかきながら。


 略語なんてちょっと怖くて、確認してからじゃないと使えないなあと思った話です。

解題2

 「1000冊目のSF」解題の二番目です。

諷刺・ユーモア作品

 現実社会の片寄りや常識と思っているところのうさんくささをユーモラスにえぐって見せる。そういうところでSFは最も実力を発揮するのかもしれません。たとえばスウィフトの『ガリバー旅行記』(1726)、あるいはもっと遡ってトマス・モアの『ユートピア』もSFの古典と考えてよいような内容ですし、そのスタイルを利用した現実の諷刺は痛烈に、かつわかり易く実社会を批判するものでした。そしてその現実を当てこすった部分が古びてわからなくなってなお、ガリバー旅行記のSF的発想の部分は文学として私たちを惹きつけるのです。


 ロバート・シェクリイ『人間の手がまだ触れない』原題:Untouched by Human Hands、1954。邦訳、稲葉由紀他、ハヤカワ文庫 SF シ 2-4 シェクリイの処女短編集です。彼は『残酷な方程式』のほうで有名かもしれません。一言でいえばアメリカの星新一でしょう。「斬新なアイディア・完璧なプロット・意外な結末」を兼ね備えるショートショートの名手と言われる方です。本作では異星人の目から見た地球人の奇妙さといったものがひねった諷刺になっているかも。まあ単にとても楽しめる、というのでも全く問題ないのですが…
 フレドリック・ブラウン火星人ゴーホーム』原題:Martians, Go Home、1955。邦訳、稲葉明雄、ハヤカワ文庫 SF 213 1964年3月26日午後8時14分(PST)から物語は始まります。いきなり地球に現れた大量の火星人たち。ただし彼らは実体のない存在で物理的には排除できません。それなのにへらず口を叩いたり悪口をわめいたり、あるいは軍事機密を次々と暴露したり…。地球は大混乱です。奇妙に非暴力的なこの侵略によって、人類の精神は散々に痛めつけられます。この火星人を追い出す最後の方法とは何か、それはとてもナンセンスなものでした。洒落で日付まで指定した近未来作品でしたので、1964年の日本でもSF作家やファンたちが「火星人歓迎委員会」を作ろうとしたのは有名な話です。
 カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』原題:Cat's Cradle、1963。邦訳、伊藤典夫、ハヤカワ文庫 SF 353 「現代という不毛の砂漠で途方にくれている誠実な心が紡いだ不毛の夢、声のない歌」(石川喬司の評)。読者は奇妙な宗教「ポコノン教」とこの本で出会います。「嘘の上にも有益な宗教を築くことはできる。それがわからない人にはこの本はわからない。 わからなければそれでいい」 彼をSF作家の枠に入れるのはよくないのかもしれません。それこそスウィフトあたりの正統な後継者の諷刺文学作家としたほうがよいのかも。この作で彼はヴォネガット・カルトと呼ばれる熱狂的なファンを獲得し始めたのでした。
 イタロ・カルヴィーノレ・コスミコミケ』原題:Cosmicomiche、1965。邦訳、米川良夫、ハヤカワepi文庫 イタリアの反リアリズム派の中心となる作家です。これまたSFかどうかというところですが、私が最初に読んだのはハヤカワ文庫SF639だったので。宇宙誕生の瞬間、魚類が陸上にあがる時、月が誕生する時、などなどの宇宙や地球のエポックメイキングな現場には全部そこにいて、その思い出を語ってくれるQfwfqおじさんの物語です。(宇宙の全物質が一点に重なって存在していたある時、人気者のある女性が「もし少しの空間があればスパゲティを作りますわよ」と言い出した。皆の頭に空間という概念が生まれたその時、ビッグバンが始まった。しかし彼女はその爆発で失われ、我々は彼女を偲んで泣くばかりなのだ…)
 ハリイ・ハリスン『宇宙兵ブルース』原題:Bill, the Galactic Hero、1965。邦訳、浅倉久志、ハヤカワ文庫 SF246 (絶版) ハインラインの『宇宙の戦士』のパロディで反戦小説の傑作。私は『宇宙の戦士』も好きなのですが(笑)本作は無理やり徴募された男の宇宙歩兵隊でのドタバタ大活劇といった形で、戦争に巻き込まれることの不条理さを描いています。ちなみに主人公ビルが爬虫人チンガーとの戦争の前線に送り込まれた時、彼はヒューズ交換六等下士補としてヒューズの交換にあたる任務を与えられていたのでした。
 ポール・アンダースン『地球人のお荷物』原題:Earthman's Burden、1957。邦訳、稲葉明雄、ハヤカワ文庫 SF 68(絶版) ぬいぐるみの熊のような身長1メートルほどのホーカという異星人種に接触したが運の尽き。まるで子供のような想像力(と現実と虚構が区別できないやっかいな心)と大人の力を併せ持つホーカたちに引っ掻き回される大騒動の連作短編です。小憎たらしい可愛らしさを満喫できます。
 ハーラン・エリスン世界の中心で愛を叫んだけもの』原題:The Beast that Shouted Love at the Heart of the World、1969。邦訳、浅倉久志伊藤典夫、ハヤカワ文庫 SF エ 4-1 暴力などをテーマにしていろいろなタイプの物語が入った短編集です。エリスンは文体を豊富に持つ人で、バリエーションが広いですね。表題作(名)は某アニメやらケータイ小説やらでオマージュされて有名になりましたが、私が最も好きなのは「少年と犬」です。(愛って何か知ってる? ああ知ってるとも。少年は犬を愛するものさ。)
 カレル・チャペク『山椒魚戦争』原題:Válka s Mloky、1936。邦訳、栗栖継岩波文庫松谷健二、創元SF文庫(絶版) ナチス山椒魚に見立てた痛烈な諷刺小説です。作者は「ロボット」の名前を生み出した人として有名(『R・U・R』1920)。実はジュブナイル訳でしか読んでいないのですが。(水中工事の理想的な労働者として世界に輸出された大山椒魚の群れは、その優れた知能を駆使し、やがて第二の人類としての勢力を強めていった。海底の彼らは着々と恐ろしい計画を練っていた。膨大に増えた種族のため、陸地を海に変えて生活空間を獲得せねばならない。遂にある日、人類に山椒魚からの最後通牒がつきつけられた。…Amazonでの紹介文より)

露出狂というよりも…

 ネタにマジレスかっこ悪いんですが、とてもインスパイアされまして
 enraku_twさん@enrakuの日記「ブログのコメントを承認制にするとかどうとか。」で次の言葉がありました。

 ブログを書く人って、要は露出狂なんだと思う。



 これをブロガーに置き換えると、
 自分の考えを晒しコメントやトラックバックで反応をもらうことが楽しいのだと言える。

 自分の考えを公開したり反応をいただいたりするのが楽しい、というのは確かにあります。
 でもそれが露出狂の域まで達している人はそんなに多くは無いと感じます。(愉快犯レベルの方もいないではないと思いますが)


 じゃあどういう譬えがしっくりくるだろうと考えて、劇場型ペルソナという言葉が浮かびました。それは語源に近いペルソナ(仮面)ということで、実人格ではない、人に見られる(というより見せる)ペルソナとして振舞う楽しさがあるんじゃないかということです。
 これは何も実人格の正反対とかいうのばかりでもなくて、ちょっと大勢に向って話すことのない人が呼びかけをしてみるとか、コミュニケーションに問題があると自認する人がつぶやきを交わしてみるとか、普段粗暴だと思われている人がそれ以外の優しい面を人に評価してもらえるとか、そういうほんのちょっと従来の自分と違ったことができて、しかもそれに反応がある(少なくとも期待することができる)舞台の上でやれているような、そんな譬えがちょうどこの楽しさを表現するのにふさわしそうな人が結構いるんじゃないかと思えました。


 これはほんのちょっとした慰みで、でも少し受ければもう病みつきという人も出てくる仕組みかもしれません。ただもちろんいいところばかりでもなくて、観客席から「大根!」とかいう声がかかった日には立ち直れないような気分になってしまうリスクもあるものでしょう。


 考えてみれば、実生活で誰か他の人に「あたまがわるい」なんて言葉を使いますか? よほど親しい友人同士でならシチュエーションを想像できないでもないですが、ほんの数度言葉を交わしたりした人にそういう言葉を投げるのはあり得ないことです。もし本当にそういう人がいたとして、それは周囲から「そういう人」と思われてしまう残念な結果しか生まないでしょう。
 でもブログやブクマでそれを言える人がいるのは、そういう人が「演じてしまっている」ところがあるからではないかと思います。舞台の上で大見得を切っているような感覚ですね。観客を意識して、俳優になってしまって、それできつい言葉がでてしまうというのもこの劇場型ペルソナの弱点ではないでしょうか。


 コメントを承認制にしたほうがいいよ、というのは、真っ暗な観客席から「大根!」とか「氏ね」みたいな声が掛けられるのを避けるという意味があるのでしょう。実はコメントやブクマで声を掛けるほうの人も、歌舞伎座で「合いの手」を入れて盛り上げようとする人みたいに他の観客を意識する劇場型なのです。ですから、「中村屋!」の声も「大根!」の声も観客がいないのなら止めようという人が多いはず。コメント承認制の抑止力はそんなところにありそうです。
 ただ、これは対SBMとしては有効じゃないです。そちらは「見ない」以外に手はありませんね。
 またこれは、観客の目を意識せず対象に向っての憎しみ、歪んだ愛情、そういったものを直接投げる人にも利きません。ここらへんが弱点といえば弱点だと思います。それでも本当にそういうことをしてしまう人はそれほど多くないでしょうし、コメント制限で助かる人はそれを真剣に考えてみる価値もあるでしょう。


 ちょっとだけお言葉を借りて、語らせてもらいました。こうして面白い言葉に触発されるのもメリットの方に数えられるでしょうね。