ハラスメント 追記 

 こういう記事を読みました
 ⇒「受け手がセクハラだと受け取ったならセクハラ。んな馬鹿な。」(the deconstruKction of right)

 「受け手がセクハラだと受け取ったならセクハラ」ということは、その本人が嫌といえばそうなるという、痴漢冤罪に非常に近いし、気に食わなければ訴えてやるぞという脅しに非常に使えるのだ。

 これはいろいろ言う人がいますが、「受け手がセクハラと取ったらセクハラではないかと俎上にあげることができる」と解釈して、その線は守るということでいいんじゃないかと思います。確かに訴えられただけで犯人扱いされたりする理不尽さは完全に排除できませんが、それはまた(重いけれど)別の問題として考えたほうがよいのでは?

 そもそもがセクハラなりパワハラなりは、女性が男性社会に進出したがゆえに生じた問題ではないのか。そこでジェンダーフリーを要求するなら、男も「嫌なこと」は拒否できるようにしなければ平等ではない。

 女性の社会進出以前にももちろん地位や立場を利用した理不尽な嫌がらせはありました(今も無くなってはいないでしょう)。男・女のレベルでの問題としてだけこれを考えるというのは筋が悪いことになってしまうと思います。これは痴漢冤罪の話とは違うところにあるはずです。


 以前にも書いたことがありましたが、ハラスメントの中でもセクハラというものが最初に注目されたのは、アメリカの雇用機会均等委員会(EEOC)のガイドラインがきっかけであったということが言われています。
 Sexual Harassment
 もちろんそれ以前からもセクハラ行為は職場などにもあったのでしょうが、これが何故セクハラに脚光を浴びさせるきっかけになったかと言えば、このガイドラインを契機に従業員のセクハラについて雇用している組織の責任が問われるようになったからです。

 企業責任の法理については、日経連広報部編『セクシュアル・ハラスメント』のなかの「アメリカの判例にみる使用者責任(奥山明良)が、分かりやすい。
 「従業員が職務遂行の過程で行った行為により、(従業員を含む)第三者の権利を不当に侵害した場合には、使用者はたとえ当該行為を命じなかった場合でも、共同責任を負う」という「代位責任(vicarious liability)の法理」(一六四頁)が、アメリカの判例でセクハラに適用されるようになった。
 (加藤尚武『応用倫理学のすすめ』丸善ライブラリー、pp/126-127)

 つまりそれは「弱者を救いましょう、差別をなくしましょう」という呼び掛け(精神論みたいなもの)が契機になったのではなく、雇用側が共同責任(=joint liability >同時に無過失責任でもある)を問われるようになって、企業などが自己防衛策の一環としてセクハラ対策に注目せざるを得なかったというところがあるんですね。(アメリカの裁判では損害賠償が冗談のように高額になることもしばしばですから)
 ちなみにその「ガイドライン」(1980年)によれば、セクハラは次のように定義されます。

 相手がいやがっているのに口説いたり、性的な愛情を要求したり、その他言葉や身体による性的な意味合いを持つ行為を以下のような場合において行う場合、それはセクシュアル・ハラスメントを構成する。
 (1)明示的あるいは暗黙に、性的要求に従うことが、個人の雇用の条件にされる場合
 (2)性的要求への諾否が、個人に影響を与える雇用上の意思決定の基礎として使用される場合
 (3)そうした行為が、相手の職務の遂行を妨げるか、あるいは脅迫的敵対的で不快な仕事環境を形成する目的によって行われる場合、あるいはそのような効果を持つと十分判断される場合

 この定義にももちろん男がどうとか女がどうとかいう性差による区別は出てきません。少なくとも建前上は性差の違いでどうのということでは本来ないのです。ですから事実上そういうものを感じたとしても、それはセクハラ自体というよりそのセクハラを取り巻く社会の問題として扱うのが筋であろうと思います。

ハラスメント1

 路上や建物に大きく書かれた文字や絵、電車の窓からも良く見られるようになったのは90年代の半ばあたりからだったでしょうか。あれはグラフィティだ、エアロゾールアートだと芸術性を説かれる人もいますね。前衛芸術方面に明るいわけではありませんが、絵はがきのように風景を切り取ってみればデザインとして確かに非凡なものもあるとは感じます。
 でも描かれた側にとってそれは通り過ぎればいい「風景」であるとは限りません。最近は住宅街や商店街のシャッターにも落書きをする馬鹿が出てきているようで、それはあまりに想像力に欠ける行為です。自分の望まぬ「アート」がべたべた目の前に突きつけられるのは、芸術性云々以前に非道なハラスメントであり得るということを考えてもみない人間(アーティスト気取りの変態ライター/ペインター)が増えたというのはとても残念なことです。
 それが公共施設や公共交通機関に描かれるという時点でも議論はあったでしょう。アーティスト気取りの人たちは反社会性も含めてアートを主張する時もありますし、通念や常識に反旗を翻しているのだとする主張にも一応耳は貸します。でもグラフィティ(落書き)をアートとしたいなら、一定期間過ぎれば自分で消せとも強く思うのです。自分の金で自分の労力で始末もつけられずにアート気取りはかたはら痛いものです。
 私はこれを所有権とか器物損壊の次元というよりハラスメントのレベルでも大きな問題だと思います。自分の家や店の壁に理解しがたい模様が描き込まれているのを見るのは精神的な苦痛になります。それが容易に消しがたいものならなおさら。それが汲み取れないようならグラフィティはただの犯罪行為にしか思えませんね。
 その犯罪者たちが自分の家だのアパートだのに入った時、そこにわけのわからない模様が必ず描き込まれてしまうようになったらどうでしょうか? すばらしい、アートだと嬉しいものでしょうか?
 もし個人の住宅や店が被害に遭うことはなく、公共物に大々的に描かれたものも一ヶ月で自主的に原状回復されるということでしたら、私はもっとグラフィティアートに寛容になれるでしょうし、彼らを変態だとか犯罪者だと思わずに済むでしょう。


 そこに残ってしまう。見せつけられてしまう。気にしないようにすればいいと言っても一度気になってしまえば無視するのはなかなか難しいものです。
 ネット上にあげられた書き込みも、それが自分に関わりのない内容で、かつあまり行かないようなところにあるものであれば「風景の一部」と通り過ぎることができます。でもたとえば自分の記事につけられたブコメなど、それがどうにも気になってしまうケースがあるだろうことは想像できます。それは単なる「風景」ではなく、その人にとっては自分の延長に土足でマークをつけられることかもしれないのですから。
 どこを気にするかとかどんな内容なら気になるかとか、そこらへんには個人差があるでしょう。ただ、自分が気にならないのは「わがこと」ではない所為だからじゃないかということは、常に考えてみる価値はあることだと思います。

ハラスメント2

 ある行為がハラスメントだという声が上がった時、もしかしたらそれに対して「それにあたるものには思えない」という感想があがることはあるでしょう。情報が限定されているならなおさらです。たとえば先日の京都外語短大でのアカハラ譴責問題、


 大学によると、教授は08年10月11日午前0時45分ごろ、携帯電話に連絡してきた学生に「こんな時間にかけるとは何だ」と激しく叱責(しっせき)。同13日午後1時ごろ、数回かかってきた謝罪電話にも対応しなかった。教授は最初の電話前、質問をメールで送ってきた学生に電話をかけてくるよう返信したが、時間などを指定していなかった。学内調査に「不用意なメールで、不注意だった」と認めたという。
毎日新聞 2009年2月11日 地方版

 最初これだけ読んだときはこれのどこがアカハラ?と私も思いました。学生の非常識さがまずあって、これで譴責されるのは理不尽に見えたからです。
 でも他のソースの記事で、


 大学によりますと、男性教授は去年10月11日、午前0時半頃、短期大学2年の女子学生から受け取った授業の質問メールに「一度電話ください」とメールで返答し、15分後に、学生が電話しましたが、「この時間帯に電話してくるとは何事だ」と取り合わない上、その後も電話に応じなかったということです。
KBS NEWS 2009年02月10日 22:55

 この詳報を読んで考えを変えました。学生が0:45に電話する直前、男性教授が0:30に「一度電話ください」というメールを送っていたとすれば、学生がそのメールにすぐ反応して0:45に電話をかける行為は一概に非常識とは言えないと判断できたからです。
 不幸な誤解があったとは思います。学生はメールにすぐに反応するのが誠意と思ったのかもしれません。深夜の電話だったからと言って、頭ごなしに叱りつけるとか、謝罪を受けずに頑なになるとかいう男性教授の行為はここで確かに譴責処分に価するものかもしれないと見えてきました。


 ハラスメントであるかどうか、それはかなり詳細な事実関係を見なければ決定できないものであるのは確かです。だからこそ相手がハラスメントを訴えればそれがすぐ事実となるのは怖い、そういう考え方もあると理解できます。ハラスメント認定は認めるにせよ否定するにせよ慎重に判断すべきということです。


 しかしながら何事かの行為の受け側が、それをハラスメントであると不快表明すること自体にネガティブな圧力(空気)がかけられるのも言語道断なこと。「このぐらいに目くじら立ててと思われるのが…」という弱気な態度(というより弱気にさせられるような"空気")が、今まで数々のセクハラ・アカハラパワハラ…をこの社会で助長・温存してきたと私は思っていますし、かつてのように後戻りするのが正しいとは到底考えられません。


 ですから、「ある行為が嫌がらせであるかどうかの事実認定」が受け手の考えによって決まるということに(また「それは嫌がらせではない」と行為したものの発言だけで決まることにも)ならないようにすべきなのですが、「ある行為を嫌がらせと受けとるかどうか」そしてそう「受け取ったことの表明」は受け手の意志によって容易にできるような環境は作っていくべきだと思います。


 ある犯罪の容疑者として逮捕される人がいた時に、私たちは軽々にそれを事実だと受け止めがちです。裁判で決せられるまでは容疑者に無罪の推定がなされるべきなのにも拘わらずです。ここらへんの認識が変わらない限り、たとえばセクハラで告発というのがあった時点で、黒白がつかないうちに軽々しく「あいつはセクハラをしたんだ」と思ってしまう人がいなくなることはないのかもしれません。
 でもこれは「セクハラだ」「パワハラだ」と声をあげる側にもいい状況ではないです。へたに人間関係などが絡むと、相手の立場などを慮るあまり「我慢できるうちは我慢しよう」という人も無くならないと思えるからです。