ハラスメント2

 ある行為がハラスメントだという声が上がった時、もしかしたらそれに対して「それにあたるものには思えない」という感想があがることはあるでしょう。情報が限定されているならなおさらです。たとえば先日の京都外語短大でのアカハラ譴責問題、


 大学によると、教授は08年10月11日午前0時45分ごろ、携帯電話に連絡してきた学生に「こんな時間にかけるとは何だ」と激しく叱責(しっせき)。同13日午後1時ごろ、数回かかってきた謝罪電話にも対応しなかった。教授は最初の電話前、質問をメールで送ってきた学生に電話をかけてくるよう返信したが、時間などを指定していなかった。学内調査に「不用意なメールで、不注意だった」と認めたという。
毎日新聞 2009年2月11日 地方版

 最初これだけ読んだときはこれのどこがアカハラ?と私も思いました。学生の非常識さがまずあって、これで譴責されるのは理不尽に見えたからです。
 でも他のソースの記事で、


 大学によりますと、男性教授は去年10月11日、午前0時半頃、短期大学2年の女子学生から受け取った授業の質問メールに「一度電話ください」とメールで返答し、15分後に、学生が電話しましたが、「この時間帯に電話してくるとは何事だ」と取り合わない上、その後も電話に応じなかったということです。
KBS NEWS 2009年02月10日 22:55

 この詳報を読んで考えを変えました。学生が0:45に電話する直前、男性教授が0:30に「一度電話ください」というメールを送っていたとすれば、学生がそのメールにすぐ反応して0:45に電話をかける行為は一概に非常識とは言えないと判断できたからです。
 不幸な誤解があったとは思います。学生はメールにすぐに反応するのが誠意と思ったのかもしれません。深夜の電話だったからと言って、頭ごなしに叱りつけるとか、謝罪を受けずに頑なになるとかいう男性教授の行為はここで確かに譴責処分に価するものかもしれないと見えてきました。


 ハラスメントであるかどうか、それはかなり詳細な事実関係を見なければ決定できないものであるのは確かです。だからこそ相手がハラスメントを訴えればそれがすぐ事実となるのは怖い、そういう考え方もあると理解できます。ハラスメント認定は認めるにせよ否定するにせよ慎重に判断すべきということです。


 しかしながら何事かの行為の受け側が、それをハラスメントであると不快表明すること自体にネガティブな圧力(空気)がかけられるのも言語道断なこと。「このぐらいに目くじら立ててと思われるのが…」という弱気な態度(というより弱気にさせられるような"空気")が、今まで数々のセクハラ・アカハラパワハラ…をこの社会で助長・温存してきたと私は思っていますし、かつてのように後戻りするのが正しいとは到底考えられません。


 ですから、「ある行為が嫌がらせであるかどうかの事実認定」が受け手の考えによって決まるということに(また「それは嫌がらせではない」と行為したものの発言だけで決まることにも)ならないようにすべきなのですが、「ある行為を嫌がらせと受けとるかどうか」そしてそう「受け取ったことの表明」は受け手の意志によって容易にできるような環境は作っていくべきだと思います。


 ある犯罪の容疑者として逮捕される人がいた時に、私たちは軽々にそれを事実だと受け止めがちです。裁判で決せられるまでは容疑者に無罪の推定がなされるべきなのにも拘わらずです。ここらへんの認識が変わらない限り、たとえばセクハラで告発というのがあった時点で、黒白がつかないうちに軽々しく「あいつはセクハラをしたんだ」と思ってしまう人がいなくなることはないのかもしれません。
 でもこれは「セクハラだ」「パワハラだ」と声をあげる側にもいい状況ではないです。へたに人間関係などが絡むと、相手の立場などを慮るあまり「我慢できるうちは我慢しよう」という人も無くならないと思えるからです。