天秤の両側

 被害者や弱者に正義(正当性)を見てしまうのは、あくまでも感情の次元でのこと。しかも多分に文化的なものと考えられます。力無き被害者、虐げられる弱者の「やられた」分を代わりにやり返してあげるのは、たとえば定番時代劇などにも見られる構図です。こういう物語を通じてもこの種の「正義」は定着していきますね。


 ここでまず難しいのは<やられた分>の評価と<やり返す分>の程度です。やり返す分の程度は、ただでさえきっちり同条件でやり返すことが難しいですし、それに「心情」などが入ってくれば客観的で公正ななどということは誰にも保証出来ないでしょう。
 「目には目を」のハンムラビ法典でも、たとえば飼っている牛を殺された場合はいくらのお金で補償するなどときっちり同害報復にはなっていません。これは考えようによっては当たり前で、牛を殺した相手が牛を飼っていない場合などはそもそも同害という行為ができないのですから。また、奴隷が傷つけられた場合と主人が傷つけられた場合でも法で定められた罪の軽重が違います。さすがに現在は身分の違いで被害の量が違うなどということにはなりませんが、結構「育った劣悪な環境」などという抽象的なものが情状酌量分を左右したりしますから、それを是とするなら絶対的な公平性などはもともと無いと諦めなければならないでしょう。


 さらに被害者の「心情」などというものはもともと主観ですし、第三者的な秤量では大抵の場合不満を残してしまうものです。もし私が家の犬を殺されたら私は自分の子供が殺されたような感情に襲われるでしょうし、その相手を殺してやりたいぐらいの気持ちになるでしょう。しかし現行法的にはそれは「器物損壊」と同等であり、いくばくかの慰謝料を加算できたとしても、決して私の心が慰められるような結論は裁判では絶対にでないと容易に予想できます。
 しかしここは法治国家です。よしんば法律が完璧ではなくとも、それは我々の声によって少しずつ改善していけるはずですし、少なくとも私はその建前を受け入れていくべきだろうとも思っています。


 さて、被害者が「人生を駄目にされた」と声高に主張するような犯罪行為があったとします。本当に駄目になった人生ならば何をもっても償うことは不可能でしょう。それでも何がしかの補償をするか、あるいは加害者の人生も駄目にして公平を期すか、何らかの手は考えられます。でもちょっと待ってください。
 それが本当に被害者の人生を駄目にするほどであったか、第三者的に判断できるものでしょうか?
 

 よく何か悲劇的なことにあたった方は「この苦しみ(悲しみ)は同じ立場の人でなければわからない」というもの言いをされるようです。確かに想像はできます。私が私の犬を失ったと考えれば、似たようなことを口走るかもしれません。
 でも、他者にわからない被害(苦痛)は結局他者にはわからないとしか言いようがありません。この種の拒絶はどこか甘えたものではないかと思います。お前にはわからないほどなんだ(ということをわかれ!)と、相手に一方的に譲歩を求めているように感じます。
 それでも結構我々はこの手の言辞を受け入れてしまうでしょう。だって相手は「被害者」で「正しい」のですから…