儒教あれこれ その2

 東アジアの人々の生き方に影響を今なお与えているとも言われる儒教、そしてその中の朱子学について、ちょこちょこ調べたもの、耳に入ってきたものを残しておきたいと思います。

朱子学での身分感覚・華夷秩序

 儒教が望む調和は、従前の身分関係も含まれたままのものとなりがちです。それゆえ救済論的側面は常に薄くなってしまいます(皆無とは申しませんが…)。
 朱子学以前の儒学儒教)でも目上の人に対する礼儀や身分の尊重が重視されていますが、朱子学では身分や秩序の規範意識が強調されています。時代背景がそうさせたのではないかとも思われます。


 唐滅亡後の五代十国の混乱期を経て、宋(960〜1279)が成立します。宋は強い文治主義政策を採りました。その結果、科挙に合格した官僚が士大夫と呼ばれる支配層を形成するようになります*1。また武の弱体化が裏目に出て北方の遼(契丹)や西方の西夏大夏)にも押され、お金で和を乞うようになり*2、宋の財政は逼迫します。*3


 宋の極端な文治主義・官僚層の貴族化・内部抗争(党争)の激化の流れの中、遼より東側、日本海沿海部の女真族が金を建国します。はじめは金と結んで遼を攻撃させた宋ですが、遼を滅ぼした金がそのまま侵攻してきたことにより、1127年首都開封は陥落します。
 これに対して江南に逃れた皇族が臨安(現在の杭州)を首都として宋を復興しますが、華北一帯は金に支配されたままで南部にしか支配権が及ばなかったため、これ以降南宋と呼ばれることになります。
 そして南宋では主戦派(武断派)と講和派(文治派)の対立の末に講和派が勝ち、金との間に和平が結ばれます。ですがこの和議では今までの遼や西夏との和睦と異なり、南宋が金に対して臣下の礼を取りお金や絹が毎年金に贈られるという名利ともに屈辱的な条件でおこなわれたのでした。


 異民族による華北支配、そして異民族へ臣下の礼を取るという状況の中、南宋での民族意識の高まりが朱熹朱子)に影響したと考えるのは自然でしょう。朱熹はその大義名分論の中で君臣・父子の身分関係(臣下の忠誠など)を正し、華夷の区別を論じます。
 これはある意味現実への一種の補償行為であり、現実はどうあれ自分たちこそ中華の正統であるとする「心の補完」がなされるわけですね。
 朱子学において下位の者、圏外の者に対する蔑視が正当化された形になったのは、いかにもまずかったと思います。他者の思想・宗教を安易に批判していいとは思わないものの、朱子学はその後長く儒学の正統とされ中国人の心根に定着してしまい*4また一方朝鮮などの周辺国の思想にも一定の影響を与えることになったからです。

四書五経

 「君子は動かずして、しかも敬せられ、言わずして、しかも信ぜらる」(『中庸』第六段)


 支配する立場の立派な人は働かない。働くのは下々のものである、という感じでしょうか。教典のこういう部分の偏った重視が、結局のところ労働蔑視的なところにつながるわけです。


 『中庸』は儒教の経典である四書五経の一つです。四書は論語・大学・中庸・孟子五経易経書経詩経・春秋・礼記を指します。もともと『大学』と『中庸』は『礼記』の中の各篇に過ぎなかったのですが、朱熹朱子学宋学)を確立させて、道統(学統)を重んじてこの四種類の書籍に註を付けて解釈(『四書集註』)してから一躍重視されだしたもので、元になって科挙朱子学が採用されてから、四書に関する注釈はどんどん増えていきました。

*1:シビリアンコントロールという程度にとどまらず、武を卑しみ文(官僚層)を一方的に利する結果となったのです

*2:少なくともここでは名目上宋が兄、遼や西夏が弟という名分は残されていました

*3:ここらあたりで財政建て直しのため王安石が宰相となり、新法を作って弱者救済→財政再建の道をつけようとするのですが、王安石の新法派に対して司馬光を中心とした官僚が反対勢力となり、旧法派として対峙していきます。史書資治通鑑』を著した司馬光は、新法が身分の秩序を逸脱するものと非難する側にいます

*4:「中国人は皆、儒教徒である。そうでなければ中国人ではない」現代中国の学者の言葉