ナショナリズムについて

 ナショナリズムはもともと「民族」が独立国家を目指す過程で成立するものでした。「民族」という理念の下に国家を形成する、その構築のエネルギーとして、ファナティックな力をも発揮するナショナリズムという現実的な神話が必要とされたのです。その意味でこれは「歴史的存在」であると言えるでしょう。
 しかしこのナショナリズムは、出現した後は統御不能性を内在する力ともなります。正の面では「統合」の原理ともなりますが、負の面で「切り捨て」や「排除」の原理をも内包し、場合によっては人を狂気に駆り立てることすらあります。


 このナショナリズムの威力の中和のために、その歴史性を強調するという言説も最近とみに見られます。例えば柄谷行人ナショナリズムは近代のフィクショナルなイデオロギーにすぎない」としますし、彼のこの言葉に影響を与えたと思われるベネディクト・アンダーソンは、国民国家というものは、近代のヨーロッパで発明された一種のフィクショナルな国家体制であるとし「nationとは想像の共同体(imagined community)である」と言います(ベネディクト・アンダーソン、白石さや・石隆訳『想像の共同体』NTT出版、1997)


 この見方に拠りつつ民族を語ったのが関廣野で、彼は民族というものは国家によって形成されるフィクションであるという視点から、講談社現代新書の『民族とは何か』を書いております。彼のスタンスは同書の中での「国家が民族形成に先行する」という言葉に凝縮されるでしょう。


 しかしこの視点に反対する論者も当然おりまして、例えば松本健一は『民族と国家』(PHP新書202)においてnationという面での民族は歴史的に限定された存在だが、ethnicityという面での民族は長い歴史を持つと考えます。この両者の類型的区別は、nationの類型区分として前々から存在していたと彼は指摘します。
 彼によれば、ドイツの歴史学者マイネッケによる「国家的ネーション(states-nation)」と「文化的ネーション(culture-nation)」の対比、政治哲学者ハンナ・アーレントによる「法的制度としての国家」と「歴史的・文化的統一体としてのネーション」の対比、などなどがそれにあたるとされます。


 そして、この対比区分による類型は十分考慮に値する(つまり「民族」概念を単なるフィクションとはしない)とした松本は、アンソニー・スミスのnationの類型区分を引き、自説を補強するのです。
(アンソニー・スミス、巣山靖司他訳、『ネーションとエスニシティ名古屋大学出版局、1999より)


・「市民的・領域的ネーション(civic, territorial nation)」
 領土・市民権・共通の法・共通の政府・政治的文化・市民的精神を基礎とする連帯、および国家形成
・「民族的・系譜的ネーション(ethnic genealogical nation)」
 歴史的記憶・集団としての運命・神話・血統(血統神話)を基礎とする集団的アイデンティティーおよびそのアイデンティティーに基いた国家形成


 この説を読むにいたり、私も単純に民族をフィクショナルなものとして相対化することの困難さを意識しました。ですが、それでもなお言えることは「ナショナリズム」は観念的なものであるということです。(ただし観念的なものであるがゆえに融通無碍に力を持つともいえるかもしれません)


 ethnicityという民族観は、単純に捨て去ることはできないと思います。しかしナショナリズムに対しては、それを弱めていく方向は考えることが可能ですし、それを超える理念によって部分的にも上書きすることができれば、「歴史的存在」としてある意味舞台の上から降りてもらうことだってできるのではないでしょうか?
 ただし私にはその相手役が巷間言われる「世界市民」だとは今のところ思えないのですが…


 現在国連加盟の国家は200弱を数えますが、少なくなってきたとは言え、民族グループの数は3000を越えるとされています。これらすべてが「民族自立」「国家形成」を唱えるべきだとしたら、それこそ戦争の世紀はいつまで経っても終わらないでしょう。
 今日の私たちは、十分ナショナリズムの姿を知って相対化し、できればそれ以上に魅力的な何かを探してみるべきなのではないかと思います。