ナショナリズム2

 一昨日の日記ではとりあえずまとめてしまったのですが、すっきりした感じもありません。まだまだこれは考えをいたさなければならないところが多くありそうです。今日はさらっと少し続きです。

国籍

 憲法第10条に「国民の要件」というのがありますが、そこには一言

 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 とあるのみです。*1ここには何ら理念的なもの、文化伝統も関係ありません。一次的には血統すら関わらない「原則」があります。
 そしてさらに憲法第22条第二項では

 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

 と明記されています。つまり誰を日本人とするかという決まり事では、手続きだけが問題になるというドライさがもともとあると言えるでしょう。特に22条の存在があるということは「日本人の責任」を考える上でとても重要なことではないかと思います。


 だって「責任をとるべき日本人」は、日本人を(理屈では)いつでもやめることができるのです。責任の主体がいなくなったらその「責任」はどこへ向かうというのでしょう?

国民と本質主義

 ラテンなニュースのご紹介による「13日付けル・モンド紙論説記事」で興味深い一節があります。

 この国をひとりの人間のように語ること自体がすでに、非常にフランス的な行為だ。この、国民全体を対象とする本質主義(訳注)には、議論の余地が大いにあることは間違いない。とはいえ、上のような本質主義[的思考]こそが、長い時間をかけて、我々を形づくってきたのであり、その歴史は我々の政治文化に常に重くのしかかっているのである。「フランスは、偉大さなしにはフランスでありえない」。シャルル・ドゴールの言葉だ。これはまた、不安を招きかねない厳命でもある。すなわち、もしお前が偉大でないのなら、お前はもうお前ではない、お前は、お前以外のものなのだということである。


 ここに出てくる本質主義という言葉が私の目を引きます。これは「何々人とは〜である」というように国籍で属性を語るやり方も指していると私には思えます。同記事の訳注でそれがよくわかります。

訳注 本質主義については以下の説明が参考になる。「本質主義的な文化の捉えかたというのは、人種や民族や階級などのカテゴリーと、その人びとのもつ文化とが自然な結びつきを持っていて、それは容易に変化しがたい本質をなしており、そこに帰属する人びとの行動や思考がその文化によって一様に規定されていると捉える考え方を指している。」


 これは決していつでも通用する当然の捉え方ではありません。定義とは異なるからです。よく私たちもしがちな見方ですが、使い方には気をつかう必要があるでしょう。


 単純に言って、ある集団カテゴリーと一定の属性を結びつけて理解するということは誤差を免れません。そのカテゴリーのすべての成員に過不足なくあてはまるような属性は滅多なことでは存在しないでしょう。しかもその集団の範囲が大きくなれば困難は増します。
 でも誤差があるからといってそれを根拠にこの考え方を否定するのも無理かと思います。


 もともとこういう考え方は便宜上のものであり、(科学的で)厳密な定義とは異なるものです。そもそもはじめに見たように「日本人」の定義からして何がしかの属性と最初からつながるものではあり得ません。ですから見方を変えて捉えると、事実上そこには二つの「日本人」というまとめ方、扱いの違うカテゴリーがあるとすべきなのです。通常その違いは意識されませんし、往々にして取り違えられます。でもそこにあるのは、「定義」と「代表値」のような二つの異なるものなのです。


 たまたま某集団Aが皆「筋さえ通れば金次第でなんでもやってのける命知らず」で構成されていたとしたら、われわれはそれを同じ属性の集団Aチームと呼ぶのに差し障りはないと思います。しかしAチームの定義としてその属性を用いるのはふさわしくないでしょう。同じ特殊な(一定の)境遇に置かれた何人かの人間ということで彼らを定義すべきです。なぜなら、そういう命知らずはこのチーム以外にも存在するはずですから。


 日本人論で「日本人は〜」と語られるのは、定義ではなく代表値としての属性(の仮説)の方です*2。ですからこの言い方では「〜であるべき」という当為に本当はなじみません。
 それゆえ本質主義的な「〜人」の捉えかたは、実践的に存在し通用しているものの、これは真実を言うというより、どこか本質への希求みたなものにすりかわっているのではないかと思うのです。

*1:関連法としては、国籍法・国籍法施行規則・戸籍法・皇室典範などがあります

*2:もっとうまい言い方を考えないといけないかもです