ナショナリズム3

「〜人」は〜である

 昨日はこの言い方について主に述べました。普通に語られる一つの表現なのですが、実はそこに二通りの用いられ方があるのではないかというのが考えたことでした。
 二通りのものとは、一つは定義となるようなもの、もう一つは代表的な属性として(仮に)判断されるものです。
 たとえば「日本人は日本国籍を持った人である」ならばこれは定義として考えられますが*1、「日本人は英語が弱い(人たちである)」という表現は後者にあたります。こういう言い方も一般によく使うものではないでしょうか。
 後者は、決して厳密な意味で「日本人」を言うものではありません。むしろ印象を語るもの、統計的な代表値を言うようなものだと思います。したがってそれを否定するにも、「私の知り合いには英語に堪能な日本人がいる」という言い方では覆せないのです。


 定義ならば「すべての○○人は△△である」という形式に変えて考えることができます。それゆえ「△△でない○○人がいる」という証明がなされれば、最初の定義が偽であると言い切ることができるでしょう。
 しかし印象で語られるような「○○人は〜である」という表現は、最初から「すべての○○人は〜である」という形式に変えることができるものではありません。「〜である○○人がほとんど(もしくは多い・少なくない、だろう)」ぐらいの表現です。


 この表現を支えているものは個人の経験則の類であり、多くの人が同意することによって確からしいものになっていく表現なのだと思います。逆に言えば、多くの人が不同意ならばそれは自然に消滅するしかないものです。すなわちそれは、

 「標本(サンプル)の平均が、最もよい母平均(母集団の平均)の推定値である」という統計的考え方に近いものであり、何度も標本を採って調べるとそれは近似的に正規分布に従うというこれもまた統計的な知恵に奇しくも類似した用法

 なのではないかと思っています。上記の「何度も標本を採って調べる」にあたるのが「何人もの人が同意する」「多くの人が同じ印象を持つ」ということです。(あえて単純に考えています。現実には「印象操作」のようなずるいやり方もありますので、多くの人が同意するからといって真実に近づいているとは言い切れないところもあるでしょう)


 たとえばアフリカの某国で、日本人などほとんど見かけない現地の人が3人の日本人に会ったとします。この3人のうち2人が居丈高な人で、1人も無愛想な人だったとします。この状況でその現地の人が「日本人は傲慢である」と結論付けたとしてもいたしかたないでしょう。
 「日本人と一括りにして考えるのはおかしい」とか、「日本人とはいえ一人一人が違うから、3人ぐらい会っただけで日本人を判断しないで欲しい」とか言っても、おそらく説得力はないと考えます。
 しかしながらその人があと5人の日本人に会ったとして、それが5人とも優しくて暖かく付き合えるような人だったら、その人は考えを変えようかと思ってくれるかもしれません。
 確かに一人一人の日本人はいろいろな人を含んでいます。しかしもしも母集団としての日本人に優しくて礼儀正しい人が多いならば、出会いという試行を繰り返すことによって「日本人は優しくて礼儀正しい」という評価が得られてくることを期待していいのだと思います。
(本当に日本人の過半が優しくて礼儀正しいか、ということについては最近胸を張ってそうだと言い難い世相だと思ってしまっていますが…笑)

歴史教育での「出会い」

 中韓歴史教育反日であるとは最近よく言われますが、おそらく彼らは幼少期からの教育の中で「残虐な日本人」「非道な日本人」「狡猾な日本人」に(疑似体験で何人も何百人も)出会わせられているのだと思います。
 だから一人や二人、いいえ数十人からの「良心的日本人」などという人たちと会っても、彼らの中では天秤が傾かないのではないでしょうか?
 彼らの中では「良心的日本人」などは外れ値にしか過ぎなくて、基本的に「信じられない悪の日本人像」だけが温存されているのだと思えてしまいます。


 こういうバーチャルに植えつけられた体験は、馬鹿げたものにしか思えません。でもこれに類似のことは、噂だけで判断する時、私たちも往々にしてやってしまっているのかも。
 それでも、少なくともそれが「友好」の道に続いていないことだけは確かだと考えられますから、もし日本との「友好」がお望みなら中国や半島の方々はすぐさま方向を転じてください。
 もしまだその方向を続けられるのなら、結局「友好」が目的ではないのだという想像が現実味を帯びてくるでしょう…。


 この日記をマッコイ博士さんの記事にリンクしたいと思います。ご参考まで。

*1:もちろんそれが命題の形である以上、真偽判断は当然あり得ます