5月18日(水)付朝日新聞社説

「靖国参拝 孔子は嘆いていないか」

「どの国でも戦没者への追悼を行う気持ちを持っている。どのような追悼の仕方がいいかは、他の国が干渉すべきでない」「A級戦犯の話がたびたび論じられるが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ」 
 小泉首相衆院予算委員会でこう述べて、靖国神社参拝を続けることに改めて意欲を見せた。 


 中国や韓国は「A級戦犯がまつられている靖国神社への参拝は絶対にしないようにしてほしい」と繰り返し求めてきた。A級戦犯は日本の侵略戦争などの責任を負うべき人物だ。被害者の立場からすれば当然の気持ちだろう。 


 それを「干渉」とつっぱねてしまっては、実のある対話は成り立たない。それが分かっているからこそ、互いの感情を傷つけないような形を模索する動きが自民党内にもあった。 
 A級戦犯がまつられていない靖国神社なら近隣国も異を唱えないのではないか。そんな読みから自民党有力者がA級戦犯分祀(ぶんし)を神社側に働きかけた。 
 01年には小泉首相自身が当時の金大中・韓国大統領との会談で、靖国神社に代わる追悼施設の建設を検討すると約束したこともあった。 
 結局、自民党内や靖国神社、遺族らの反対でいずれも頓挫した。だからといって中国や韓国の人々の理解を得ようとする努力をやめていいはずはない。 


 中国や韓国との間ではいま、激しい反日デモなどで険悪になった関係を立て直す大事な時期にある。中国とは来日中の呉儀副首相をはじめ要人の接触が復活した。東シナ海のガス田開発問題では今月末に局長級協議が行われる。来月には韓国との首脳会談も予定される。 
 首相の今回の発言はこうした機運に冷や水を浴びせるものだ。「罪を憎んで人を憎まず」は、被害を受けた側が加害者をゆるす時に使う言葉だろう。あまりにも思慮を欠いた発言だ。 


 私たちは、首相に靖国参拝をやめるよう繰り返し求めてきた。それは、中国や韓国との不幸な緊張状態の改善を願うためばかりではない。 
 靖国神社は戦前、陸・海軍省が所管した軍国主義のシンボルだった。いまの日本の首相が戦没者を弔う場所としてふさわしいとは思えない。 
 首相の参拝は、いくつもの裁判で政教分離を定めた憲法に照らして疑義が指摘されてもいる。外国に「干渉」されるまでもなく、そもそもおかしいのだ。 
 戦後の日本は、A級戦犯を裁いた東京裁判の結果を受け入れてサンフランシスコ講和条約に調印し、国際社会に復帰したはずだった。そのA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に首相が参ることに、欧米のメディアからも疑問の声が出ている。 


 首相の言葉は威勢がいい。しかし参拝を続けることで失われる国益については何も語っていない。 
 「過(あやま)って改めざる、是(これ)を過ちと謂(い)う」。孔子はこういっている。
 


 先日の日記小泉首相の引用について述べましたが、その時の発言に対しての朝日新聞の社説がこれです。私は小泉首相と同じ考えだとは思っておりませんが、それにしてもこの「社説」は…


 この社説が言っていることは次の三つだけです。

靖国神社参拝はいけない

A級戦犯は日本の侵略戦争などの責任を負うべき人物だ。被害者の立場からすれば(引用注:それらの人への参拝をするなと求めるのは)当然の気持ちだろう。


 死者へいかなる態度で臨むかは宗教的・文化的に変わってくるもの。死者の罪を殊更に言うのも一つの態度にすぎません。それを「当然」と言ってのけ、この態度の押し付けに疑問を抱かずにいるのはいささか宗教音痴の感があります。
(また、いわゆるA級戦犯に戦争責任をみな負わせることができるのでしょうか? 筆者は、少しでもA級戦犯がどういうものであるか調べたことがあるのでしょうか…)


戦後の日本は、A級戦犯を裁いた東京裁判の結果を受け入れてサンフランシスコ講和条約に調印し、国際社会に復帰したはずだった。そのA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に首相が参ることに、欧米のメディアからも疑問の声が出ている。


 東京裁判A級戦犯靖国合祀を禁じていたとは初耳です、という皮肉も言いたくなるようなピント外れの主張です。たとえば韓国が、伊藤博文を暗殺して犯罪者として刑死した安重根を戦後に英雄視していても、日本がそれについて文句を言ったことがあるでしょうか?
 まして欧米のメディアが、宗教的寛容に逆行するようなことを言うでしょうか?寡聞にしてそういう事は聞いたことがありませんし、この筆者はソースを挙げておりませんので単純に信じられません。勘違いか嘘なのでは?


靖国神社は戦前、陸・海軍省が所管した軍国主義のシンボルだった。いまの日本の首相が戦没者を弔う場所としてふさわしいとは思えない。


 今の靖国神社が「軍国主義のシンボル」であるか否かだけが問題です。これは日の丸・君が代に妙な拘りを持ち続ける方々にも共通の悪弊だと思いますが、なぜ無条件に過去を以って今を断罪できると思われるのでしょう?
 まして現在の靖国神社は国家護持の施設でも何でもなく、一宗教法人に過ぎません。それがいかなる宗旨を持つかについて、なぜそこまで介入できると思うのでしょう? 小泉氏がそれを国家的宗教施設にして、税金をもって補助し、人々の崇敬を強要しているならば批判できますが、そうではないでしょう。馬鹿げています(靖国問題の基礎知識参照)

小泉首相の発言はいけない

「罪を憎んで人を憎まず」は、被害を受けた側が加害者をゆるす時に使う言葉だろう。あまりにも思慮を欠いた発言だ。


 本当にその用法が日本だけでなく各国でも同じであるのか、筆者は確かめているのでしょうか? たとえばキリスト教においても「罪を憎んで人を憎まず」にほとんど重なる赦しの言説がありますが、これは被害者から加害者への赦しの言葉に限定などされておりません。人を罰することができるのは神のみであるという考えの影響も強いと思いますが…。この筆者の思慮などというものの程度がわかる言葉です。


「干渉」とつっぱねてしまっては、実のある対話は成り立たない。


 それでは干渉を黙って受け入れれば実のある対話が成り立つのでしょうか? 筆者は、他国の制度が民主主義的ではないと口を挟むアメリカの態度を無条件で容認なさる方なのですね…。

靖国参拝をやめると利がある

首相の言葉は威勢がいい。しかし参拝を続けることで失われる国益については何も語っていない。


 はっきり書かれていないので、こういうほのめかしだけでは私には理解できません。何を国益とおっしゃっているのでしょう?いやしくも新聞という公器の社説で、こういう暗示だけで何かを言おうとするのは悲しいくらい「論」にもなっていない自己主張だと感じます。


 以上見てきて、このそれぞれの主張がほとんど思い込みだけで並べられていて説得力に欠けるようなのですが、私の読み方がいけないのでしょうか? これが社説として読まれていいものなのでしょうか?

おまけ

巻第八 衛靈公第十五 より
子曰、過而不改、是謂過矣
(子の曰わく、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う)


 「論語の世界」をごらんください。「過ち」については、結構多くの言及がなされています。検索可能です。
 細川内閣の国民福祉税構想発表の際の、内閣官房長官であった武村正義氏の「過ちを改めるに憚ることなかれ」発言もあります。


巻第一 学而第一 より
子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改
(子の曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如(し)からざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ)