首相は個人の信条で靖国参拝と…

小泉首相は20日の参院予算委員会で、自らの靖国神社参拝について「大局的見地に立って参拝している」と述べた。公明党の神崎代表が19日の記者会見で「もっと大局観に立った行動をしてもらいたい」と批判したのに反論した。首相は「総理大臣の職務として参拝しているものではない。個人の信条で参拝している」とも強調した。 (http://www.asahi.com/politics/update/0520/007.html?t


 首相の靖国神社参拝問題についていろいろな議論を拝見しましたが、積極的に参拝すべきとする方々も参拝中止を主張される方々も、いつの間にか靖国神社の国家的・国民的意味の議論をなさっている感がありその点非常に違和感を感じていました。それが今なされるべき議論の主題なのでしょうか?


 私の考えの基点になるのは、現在「靖国神社は一つの宗教法人にすぎない」という事実です。私自身は靖国神社を積極的に崇敬する者ではありませんから、これは私にはあまりにも明らかなことでした。しかし同時に、他者の信仰は尊重しようと考えてもおりますし、宗教的寛容はこれからの世界にどうしても必要な理念だと感じてもおります。
 その前提の帰結は、靖国神社に対しての信仰は敬して傍観する、そういう態度になるかと思います。(考えの流れは過去の日記を参照してくださればおわかりいただけるかと…)


 私が重視するのは「思想・信条の自由」です。これを守るためには、無制限な自由ではなく「棲み分け」という理念が必要となると考えます。宗教の側面では宗教的寛容に基づいた相互の尊重が理想形に思えます。これらを実現する力として、法、そして政府・国家というものに働いていただきたいとも思っています。*1


 首相の靖国参拝を積極的に推進すべきと考える方々には、戦死者の慰霊・鎮魂を思われる方がおられます。そのお気持ちは当たり前ですが尊重すべきだと思います。ただ一点、靖国神社の国家護持という話になりますと私は賛成できません。国が戦死者を悼むのは当然であるという議論もありましょうが、私の考える戦死者の方は戦闘行為で亡くなられた方はもちろん、食糧不足で亡くなられた方、東京大空襲で亡くなられた方、広島・長崎で亡くなられた方、大陸で引き揚げの際に亡くなられた方…そういったすべての方々ですので、靖国神社の現在考えられている戦死者の方の射程とは異なるのです。靖国で鎮魂を祈られる全ての方を私は敬意を持って尊重いたしますが、それは私の考える「戦死者の慰霊」とずれがあり無条件に賛同させていただくものではありません。こういう立場をご理解いただければ、共存・棲み分けができるのではないかと思っております。


 首相の靖国参拝を中止すべきと考える方々には、少し申したいことがございます。すでに冒頭の記事のように小泉首相の「言質」は取ったと考えていただけないでしょうか?彼は個人的な参拝と明言いたしました。ならば彼の信仰に対する寛容を見せてよろしいのでは?
 靖国神社に首相や議員が参拝したとして、何が問題なのでしょう。彼らが公費を大量に注ぎ込むとか、靖国神社を特別扱いして公的に優遇するとか、国家護持にするとか、そういう段階で反対するならば理解できます。しかし現在はそうではありません。下司の勘繰りをすれば彼らにも選挙があります。靖国を信奉する有権者が多ければ、信仰が大してなくても参拝してみせるかもしれません。万が一そういうパフォーマンスだとして、それは誰の迷惑になるというのでしょう?
 また、各国元首が宗教的行為をするのはままあることです。たとえばアメリカの大統領は聖書に手を置いて就任宣誓いたしますし、他国訪問の際など無名戦士の墓に花を捧げることもあります。ローマ教皇が亡くなれば元首クラスが弔問する場合もありますし、日本で考えている以上にそうした宗教的行為は多いのです。それでも近代国家では、一応の政教分離の原則は毀損されていません。思想・信条の自由、宗教の自由の大枠が壊れなければ、私は国家公務員にもその自由は認めるべきだと強く感じています。
 宗教をどこか侮ったり、敵だと思っているのではないですか?私はそれに与しようとは全く思いません。


 棲み分ければいいのです。「敵」と思って叩き潰す必要などよく考えればないことに気付くはず。尊重はしても他者が押し付けてこないならば、それは敬して傍観すればいいだけです。そうすべきです。だから今必要なのは、靖国神社の国家的・国民的意味の議論ではありません。それは的外れの議論です。


 靖国参拝が首相の総裁選での公約だから…という意見も目にしましたが、まず下記の記事をごらんください。

終戦記念日靖国参拝、首相「公約にしない」 総裁選 
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 小泉首相は15日、自民党総裁選に掲げる政権公約マニフェスト)に終戦記念日である8月15日の靖国神社参拝を盛り込むかどうかについて「それはもう2年前に済んでいる。諸般の事情を考え、15日は避けると。すでに2年前に申し述べた通り」と語り、公約にしない考えを示した。首相官邸で記者団に語った。  この問題で首相は01年の総裁選の際に「8月15日の戦没慰霊祭の日に、いかなる批判があろうと必ず参拝する」と明言しており、事実上の公約となっていた。首相は就任以来、3回参拝しているが、いずれも8月15日以外に日にちをずらしている。  また首相は、国立の戦没者追悼施設の建設構想が進展を見せていないことについて「宙に浮いているということじゃない。静かに、冷静に諸般の情勢を見ながら考えるということ」と述べた。 (08/16 00:16) (http://www.asahi.com/special/seikyoku/TKY200308150246.html

 少なくとも前回の総裁選では靖国がらみの公約はないでしょう。それに何より、靖国参拝を公約に掲げたとして、それは靖国を国家護持するとの公約ではありませんから私はそこに何の問題も感じません。


 彼に靖国参拝をして欲しい人々がいるからこれが争点にもなるのであって、その人たちがすべて靖国国家護持を考えているか私には疑問です。そしてまた国家護持を考えている方々がいても、それが「軍国主義」なるものに直結するとも全然思えません。ことはもっと複雑でしょう。


 内外の賛成派も反対派も冒頭の首相の発言、そして靖国神社の私的参拝という言明については積極的な意見を言っているようにも思われません。どうしてでしょう。私は、今までの読みがはずれたので何を言ってよいのかわからないのではと思えてなりません。

おまけ

 2004年2月7日(土)「しんぶん赤旗」

靖国「私的参拝」ならよいか?

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 〈問い〉 日本共産党は首相・閣僚の靖国神社参拝に反対していますが、私的参拝ならよいのでしょうか。(埼玉・一読者)

 〈答え〉 靖国神社は、侵略戦争の精神的支柱となり、いまも戦争を肯定・美化しA級戦犯も合祀(ごうし)している神社です。日本共産党は、首相や閣僚の靖国参拝には、本人の「公式」「私的」といった言明にかかわらず一貫して反対しています。この区別が恣意的で無意味なことは、これまでの靖国参拝の経緯にも現れています。

 歴代首相で八月十五日に靖国神社に参拝したのは、一九七五年の三木武夫首相が最初です。三木首相は「私人」としての参拝だと強調しましたが、これが靖国参拝問題の始まりでした。

 このとき政府は、▽公用車を使用しない▽玉ぐし料を国費から支出しない▽記帳は公職の肩書きを使用しない▽閣僚など公職者が同行しない−の四条件を満たせば、私的参拝であるとの解釈を示しました。しかし、この政府解釈はその後の歴代内閣で次々に破られ、ついに一九八五年、中曽根康弘首相が初めて「公式参拝」だと明言して参拝を強行したのでした。

 結局、「私的参拝」なるものは、公式参拝にむけて既成事実を重ねるための煙幕でした。自民党は一九七四年までに、靖国神社国営化法案を五度提出し、すべて廃案に追い込まれていました。自民党は、国民の反対でいつまでも成立できない国営化法のかわりに、靖国への公式参拝をなし崩し的に定着させ、事実上の国家的な宗教施設にしたてあげようとしたのでした。

 八五年の「公式参拝」に国内外の反発が大きかったため、翌年から十年間、首相の参拝は断絶しました。この間、九一年の岩手靖国訴訟仙台高裁判決など靖国公式参拝違憲とする判例も定着しました。九六年の橋本竜太郎内閣から首相の参拝が再開されましたが、首相が参拝すること自体が政府による靖国神社の特別扱いであり、憲法政教分離原則(第二〇条)などに違反するものです。(清)
 〔2004・2・7(土)〕


 陰謀論の典型だと思います(笑)

*1:一部修正:「も」を入れました 11:38