自国嫌悪

 「自己嫌悪」というものについて私が最初に説得力のある意見だと思ったのは確か岸田秀氏の著作の中のものでした*1。それを種に自分の中でいろいろ足したり引いたりしていますので、元ネタからはずれているかもしれませんが、今これについて思っているのは大体次のようなことです。


 自己嫌悪というのは一見良心的な装いがありますが、その実、単なる欺瞞で建設的ではないものになってしまいがちです。自分がやってしまった行為が恥ずかしくて、自分でそんなことをやった自分が嫌いで、それで自己嫌悪となるわけですが、結局それはいかにも第三者的視点で自分を糾弾するだけで、むしろ反省につながらないのではないかと…。
 そこで行われることは、自分を嫌う自分というものを生み出し、その部分にすべての自分(自尊心)を仮託して、「本当の自分」はこんな恥ずかしいことをする自分とは違うんだと自分をごまかすことではないでしょうか。
(「自分」ばっかりで何を言ってるかわかりにくいですが…)


 でも結局自分をやめるのでない限り恥ずかしい自分も自分です。ごまかしたって何にもなりません。ごまかせているのは自分の頭の中だけで、他者の視点から見れば何もごまかせていないのです。


 さて、私は「日本を卑下する日本人」像(一部で反日日本人と呼ばれるような類型の方々)の中に同様の形の欺瞞があるのではないかとふと思いました。


 私はニューカマーの韓国人の友人と話していて「あなたは右翼だ」と(興奮気味に)言われたこともありますし、おそらく「良心的日本人」の方々から見ればネット右翼の類なのだろうと自認しております(苦笑)。そしてネット右翼などというものが単なるレッテルで内実が何もないのと同じで、反日日本人とかいう存在も実体がつかめるものではないとは思います。それでも確かに、私から見れば不必要なまでに日本や日本の過去などに対して「冷たい」方々を散見するのも事実です。あえて身びいきをしないという程度の話ではなく、犯罪の被疑者ですら「推定無罪」なのに、自分の属する集団に「推定有罪」(しかも不確かな根拠)という態度で臨む方々です。
 ちょっと前の言い方ではこういう方々を自虐的と呼んだかもしれませんが、私にはそれが自虐をしているようには思えませんでした。むしろ他者として、自分じゃないものとして日本(の過去)を断罪するかのように感じたのです。


 理解できないままにレッテル貼りをしても気持ちが悪いだけですので自分なりに考えてみると、彼らの中には「自己嫌悪」があるのではないか、自己嫌悪を自分のアイデンティフィカルな集団に広げて行っているのではないかということが思われました(もちろんそれだけを唯一の理由とはしませんが…)。それはもしかしたら自分を免罪する欺瞞としての「自国嫌悪」なのではないかと思ったのです。


 言ってみれば集団的自己嫌悪ですね。何かのはずみに自分達の過去が恥ずかしいと思い込む。そしてその過去が自分を形成する要素となっていると考えるのがいたたまれなくなってしまって、その過去を自分から切り離したいと考える。そういった負の願望が日本に対する「冷たさ」につながる。そういうところはないでしょうか?


 人は等身大の自我などで生きてはいません。むしろ等身大の自分などというものを認識する(作る?)ほうがよほど難しいことだと思います。過不足のない自己評価・自己認識など簡単にできるものではないと私は考えています。むしろ最初のエゴは自分ひとりに閉じたものではなく、成長とともにだんだん自我の枠が狭まってくると考えるのが正しいのでは?そしてそれにしても、弧在する自我などというものは独我論の世界、不毛で寂しくて正気でいられるとは思えません。大なり小なり国や、故郷や、学校や仲間、家族といった集団に自分を支えてもらっている。そういうものによって自我が形成されてきているのだからむしろそれは当たり前です。だから自国に自我の一部なりを同一化するのは普通のことだと私は考えます。
 もちろん全的に、集団に自己を同一化するのは危ういでしょう。たとえばその対象が閉じた宗教集団の場合は、カルトに嵌っているという表現をされるはずです。そこらへんのバランス感覚については、私は「普通の人」を基本的には信じられるだろうと思っています。余計なことなどしなくても、たいてい自分でバランスが取れる人が絶対的に多数でしょう。


 自国にちょっとぐらい自我を置いても何も問題はないだろうと私には思えるのですが、極端にそれをいやがる方がおられます。たとえばオリンピックで日本を応援してはしゃぐのはみっともない(いや、確かにやり過ぎはみっともないと思いますが)、自分はアスリートたちの自己表現だけに興味があるので、日の丸が揚がるのには全然興味がないなどとおっしゃる方々です。


 確かにそういうふうに国家や国家とのつながりに嫌らしさを感じる方がいるのかもしれません。ですがおそらくそういう方は、自国だけではなく他国の人の愛国的感情や郷土意識も理解できないのでは?それはつまり現在の世界の人々のかなりの部分とわかりあうことができないと宣言なさっているようなもので、寂しい限りです。そこまで行った方はおいておいて、どうにも理解に苦しむのが自国(日本)に対する気持ちには冷たく、他国(たとえば中国・韓国など)の愛国心には暖かいという方々です。首尾一貫していません。


 そういうダブルスタンダードの方に対してだけ「邪推」しますと、彼らはやはり自分と自分たちの「恥ずかしい歴史」とのつながりを絶ちたいと思っておられるのでは?
 それが極端に自国の歴史のある部分への過剰な攻撃となり、そうやって自分達の「過去への恥ずかしさ」をごまかしている…。
 しかし、結局これにしても自分と自分をつくるのに関わってきた歴史は切り離すことなんかできないわけですから、欺瞞に終わるしかないんです。切り離したと思ってしまっては(つまり自分とは関係ないんだというような高慢な態度になってしまっては)、おそらく何もそこから学べないでしょう。


 私は歴史の(といいますか自分の存在しなかった過去の)何らかの行為に対する責任は拒否します。しかし歴史認識に関してはいやでも恥ずかしくても受け入れたいと思っています。もちろん自分で納得してです。闇雲に否定することは、いやなことに目をつぶるのと同じ行為に思えます。だから自分ではそのどちらにも与したくありません。


 まあ偉そうに勢いで書いてしまいましたが、私とて矛盾に満ちた人間ですので、他人様を一方的に糾弾することは本当は役どころではないです。上でごちゃごちゃ言われたことが「自分のことではない」と思われる方を攻撃しているわけでもありません。なにしろ私も、一時期自己嫌悪みたいなものに逃げた経験があるからこそ、自己嫌悪がわかるような気がしているくらいですから…。
 でももしかして、ここに書いてきたことに少しでも覚えがあると(正直に)思えた方は、少しそこらへんを考えていただけたらなあと、そのぐらいのことを願っています。

*1:『ものぐさ精神分析』シリーズだと記憶しております