正義

 私が拝見させていただいているいくつかのblogで、正義について語られています。正面切った正義論を話すにはまだ材料も足りないのですが、単に備忘としていくつか思いついた点を書いておきます。

正義という語

 正義についてのはっきりした定義、万人が納得する語義はないでしょう。しかしそれでも「正義」に相当する言葉や概念はどの社会も持っていることと思います。これはその概念について議論しながら、機に応じて人々のベターな選択を引き出す類の操作概念と思って取り組んだ方がよいと考えます。つまり「絶対の正義」「究極の正義」は考えるべきではないということです。
 言い換えますと私が取りたいのは「正義はある」、しかしその正義は相対的に適用される、それが人々にとって有益であると信じる、という感じのスタンスでしょうか。

不正義という語

 正義の対義として不正義を考える場合、正義を絶対化すれば不正義も絶対化してしまいます。しかしながら正義と正義のぶつかり合いなどはよく目にするところのもの。だからといって正義を相対化して解体しようという立場に賛同もできません。
 何が正義であるかを判断するのは人間です。不完全な人間にできるせいぜいのところは、よりましな選択を常に行えるよう考えることです。そしてその選択を考慮しなおし、経験を重ねていくことで、さらに後の選択の機会によりよい選択ができるようにしていくことだと思います。
 不正義を廃するにしても、それは局面局面での選択の中である程度限定的に行うべきではないかと。さもなければ、後で修正が効きにくくなっていきますから。

正義の手段

 たとえば正義を守るため(不正義を正すため)には手段として不正義を用いることができる、という命題は常に問題になるでしょう。私は絶対の正義を置かないという原則の下で限定的ならばOKだと思います。
(なんだかこう書いてみると、平和の問題を巡って軍備を持つのが許されるべきなのか、自衛隊ならどうだというお話ともかなり重なって見える問題のようですね。そこまで言わなくても、おそらく死刑制度の存廃についてはここらの話が必要になってくると思いますから、あながち私たちに関係のない話ではありません)
 絶対の正義というものがあるとすれば、私は手段としての不正義も許さないものではないかと思うのです。でもだとしたら「悪を討つ」ことはできませんね。どう考えたらよいのでしょう?
 物語の善玉悪玉ほどことは単純に考えることはできません。物語では私たちは作者によって神の視点をもらっていることが多いので、判断に苦しむことは少ないでしょうが、情報が不足している局面では自信をもって正義を行うことがそれほど簡単なことにも思えません。

思いつき

 時代劇の勧善懲悪のヒーローは、へたをするとただのテロリストです。法によらず、自らの判断だけで「人間じゃねぇ、叩っ切ってやる」というのは、いくら良心的なお医者さまにも許されることではありません。もしかしたら鈴之介君も、親の仇と思い込んだ「封建制度の下で苦吟にあえぐ人々を解放しようと、偉大なる指導者首領白髪鬼さまに率いられて、江戸幕府に対して革命を起こそうとしていた地下組織鬼面党」を私怨から全滅に追い込んでしまった少年テロリスト、反革命のアンチ・ヒーローだったのかも。


 備忘が変な方向に逸れましたので、このくらいで…。