オメラスから…

それとも、もし、フーリエや、ベラミーや、モリスのユートピアをはるかに凌ぐような世界、幾百万もの人びとが永久の幸福をたもちうる世界が、ただ一つの前提、この世界の遠いはずれにいるひとりの迷える魂が、孤独な苦しみの生涯を送らなくてはならないという、ただそれだけの条件でわれわれの目の前にさし出されたとしよう。そこでわれわれがただちに味わう、この特殊で自主的な感情は、いったいなんだろうか? さし出された幸福をつかみとりたい衝動が心の中に湧きおこりはするが、なおかつ、そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受けとり、それを楽しむのが、いかにおぞましいことかとわれわれにさとらせるこの感情は?
ウィリアム・ジェイムズ


 アーシュラ・K・ル・グィンの「(ウィリアム・ジェイムズのテーマによるヴァリエーション)オメラスから歩み去る人々*1は、まさに上のテーマをなぞる形での寓話です。それは、繁栄するアメリカ合衆国の中で彼女が感じた「痛み」の吐露であり、彼女自身がpsyco-mith(心話)と言っている形で描かれた実験小説風の短編です。


 私が文庫版の初版を入手したのはまだ高校生の頃でしたが、寓意とか何かよりもただ妙にひっかかる肌触りでこの掌編を覚えておりました。お世辞にもわかりやすいとは言えませんし、何より短いです。それでも必ず何か後に残るものがあるのではないかと感じています。


 読者は、omelasは描写できないほどの素敵さだと聞かされます。実際その町は勝手に想像して、自分に最も都合がいいように思っていいようです。とにかくあたう限り最上の場所と思えばよいのです。
 しかしただ一点、オメラスには薄汚く不条理で吐き気を催すような「影」があります。その理不尽な「影」のおかげで、オメラスが繁栄できるのだと、それが交換条件だと聞かされます。
 オメラスのほとんどの人はその「影」を知りショックを受けますが、それを仕方の無いことと思うか、忘れてしまおうとします。そしてそれで夢のようなオメラスの繁栄は守られます。


 しかし、不意にオメラスから消えてしまう人々がいます。決然として、一人きりで、彼らはオメラスを歩み去ります。たった一つのことに目をつぶれば、オメラスはユートピアなのに…。


 何度かこの掌編を読む度、その時に応じて感じることは変わって参ります。繁栄する大国が、かならず負の部分、影の部分を持たざるを得ないこと、そしてそれに甘んじていいのかということを強く感じた時もありました。また、世の不正に目を閉じることが、自分を貶めているんじゃないかとじりじりするときもありました。単純で筋らしい筋もないものだけに、気になり始めると強く心が動かされる類の寓話でしたから。


 もちろんその時の心もいまなお私に呼びかけるものではありますが、今の関心では、若干異なるところに読み筋を持っています。それは、オメラスから歩み去る人々が、一人一人静かに去っていくところにフォーカスした読み方です。


 今の私は、オメラスを出て行く人たちがこの街に対して「呪詛」を投げかけていないというところに感動します。オメラスは確かに極めて耐え難い弱点を抱えたところです。そしてそこの人びとはその弱点に見て見ぬ振りをし、それゆえの繁栄、幸せを享受します。
 しかしごまかしであれ、彼らは幸せなわけです。それに気付くかどうかは別にして、よしんば偽りの幸福だとしても、誰かにそれを壊されなければならない道理はないんじゃないでしょうか?
 少なくとも「歩み去る人々」はそう思っていると考えます。自分は気付いた。そして自分の想いに従ってここを去る。だけれども、彼らは静かに去るのです。


 時に、自分が何か真実を理解して、他の人たちが愚かに思える瞬間もないことはないでしょう。ですがそれが本当に唯一無二の真実なのかということに確証など持てないのです。そしてそれが危ういからこそ、自分の正当性を声高に言いたくなって、人は他者を悪し様に言いがちなのだと思います。
 でもそれは、本当の真実に達した人のとるべき態度には思えません。本当の真実を得た人は、なにもあがく必要などないのです。また自分を正当化しようと、誰かに呪詛を投げかける必要もあるはずがないと私は言いたいです。
 他者の幸せが偽りの幸せかどうかは、結局その人の判断に任せるしかないことです。第三者がそれを糾弾し、引きずりおろそうとするのは、やはり傲慢なこと…


 もし自分の立場に不正を感じたら、そしてそれが漸進的改善を許さない「選択」として突きつけられたとしたら、真にわかった人は「静かに」去るのみなのでしょう。他者の「幸せ」を壊す権利はないことを知っているのですから。
 でもそれだけでは彼ら「去りゆく人々」に救いはないように思えます。そこをこの短編は、宗教的?とも言える描写で微妙に救うのです。(私はそう感じました。でもそこらまで細かく書いてしまえば「ネタばれ」ですので今は控えます)


 今の世には「呪詛」が満ち溢れているように思えます。確かに弱者の呪詛を聞いてあげようとする人々が増えたことには肯定的な意見も持ち得ましょう。私もそれを評価できると感じるときはあります。しかしながら忘れてはならないのは、弱い立場と思う方々の呪詛を一緒に唱えることが、自分の、自分だけの免責につながると思ってはいけないということではないでしょうか。自戒して参りたいところです。

*1:『風の十二方位』ハヤカワ文庫SF399、所収