民主主義について

 特定のどなたか(あるいは立場)を責める意図はありませんのでソース無しですが、「少数者の意見を大事にするのが民主主義だ」という類の言葉を何度か伺ったことがあります。私はこれに違和感を感じます。
 民主主義は、最終的に「多数」を正しいとするからこそ「民」が主であり得ると思うからです。「数こそ力」という身も蓋も無い力学に、プロトコルの明確化が加わったものが民主主義なのではないでしょうか?


 歴史的には、たとえば国政の場において一般の人が王や貴族などより「重み」を持っていなかった時代がはるかに長くあり、それが近代的「民主主義」というものに壊されたのがフランス革命なのではないかと思います。
 君主は「王権神授」などの思想により特別なものと考えられていましたから、身分の違いが意見の重みの違いとしてありました。そういう社会では支配層レベルでの多数決はあり得ますが、国民(個人)の総意を多数決ではかりそれを国(集団)の意志とする発想はありません。これがあってこその「民主」です。


 王権神授などを否定して、平等性(エガリテ)というスローガンが通ればこそ「多数の幸福が少数の幸福より上」というロジックが通用するのだと思います。もし個々の比重がばらばらなら、多数につりあう少数もあり得ますから。だからこそ民主主義の成立には「皆同じ平等な一人」という考えが必要だったのだと考えるのです。
 そしてこの「同じ重さ」の人びとの「多数派」に正当性を与えるのに選挙というものがありますが、選挙の本質は多数決にあると思われます。


 多数決は必ずしも絶対のものではありませんが、少なくともそれが妥当性を持つとみられるためには、ある一つの場における参加者の「一票」が同じ重みであることを必要とします。等価な一票(言い換えれば平等な個人)が意志の集約をして、多数の支持を得たものに(多数であるという理由をもって)正当性を与えるというのが多数決なのです。


 こうして考えると、民主主義のもともとには少数の意見をまるめて(もしくは切り捨てて)多数の意見を正当化するという発想があるように思われます。そしてむしろ全員一致を求めるかたちの方が、少数者の意見が重きをなすことにもつながるのではないかと…。少数意見の切り捨てという形での意見の集約を目指さず、とにかく全員一致するまでものごとを決めない態度は、はなはだしく非効率ではありますが納得しない少数というものの顔を最後まで立てているものとも考えられますから。


 ではなぜ民主主義は「少数者の意見を大事にする」と思われることがあるのでしょう。一つにはプロトコル(手続き)の明確化がなされたということがあるでしょう。私にはむしろ法治主義のおかげとも思えますが、恣意的でない手段によって少数者も自分の意見を表明する機会を得られるという点が評価されるのだと思います。多数決の前の議論などというものがない場合、「直訴」のようなまぐれ当たり狙いの行為しかなくなってしまうからです。本当に民主的な政体においては直訴はあり得ません。一人一人が主権者であって、訴えを取り上げてもらう支配者(層)はないということになりますから。
 また民主主義は「自由な個人の意志の集約」にこだわることで正当性を確保しますから、武力による脅迫や金銭による利益誘導は極力排除するという建前に向かわざるを得ません。それゆえ「言論重視」ということが言われ、少数者も意見表明の場から疎外されることがない(はずな)のです。


 私は現時点で民主主義的政体以上の有効な政体を知りません。ですから民主主義には反対ではありませんが、そこには納得ずくでベターなものを選んでいるという感覚があるのは事実です。
 少なくとも教条主義的に「民主主義は善いもの」と思い、民主主義は少数者を大事にするとばかり考え、さらには民主的手続きによる決定に自分の考えとは違うという理由で従おうとしないような態度では、民主主義がわかっているなどとは言えないのではないでしょうか。
(これはあくまでも一般論です)