海外での事件

 カンボジア北西部でのインターナショナル・スクール幼稚園立て籠もり事件の顛末が明らかになってきました。この人質事件で園児の一人が殺される結果になったことは、非常に残念なことです。ですが、あれだけパンパン撃ち合いをしながら最小限の犠牲で済んだのはむしろ不幸中の幸いであったとも思います。この事件では、幼稚園児に日本国籍の子がいたということもニュースがちょっと大きく取り上げられた原因だったのでは。


 少々古い話かもしれませんが、一時期海外での日本メディアの取材態度に対して国内からある種の批判があったことを覚えているでしょうか。それはたとえば飛行機事故があったときなどに「日本人は乗っているか」という視点からニュースが流れたり、邦人無事などというタイトルがつけられることに対する批判でした。
 確かそれは「日本人が無事ならそれでいいのか?」という問いかけであったと記憶しております。それはあまりにナショナリスティックで、自己本位。他の犠牲者のことを悲しむ気持ちなどないんだろう…という倫理的非難だったはずです。


 この類の批判がそれなりに流れた頃、私も結構同調していたと思います。「日本人が無事→ああよかった」で終わるならば、他に亡くなられた方などいた場合不謹慎(というか身勝手)ではないかと私もストレートに考えてしまっていたからでした。


 今は少々この見立てがナイーブすぎたと思うようになっています。まず一つには、人の関心が身近なところに強度をもつのは自然なことで、身内は大丈夫か、知り合いは大丈夫か、何かしら関係のある人は大丈夫かという最も知りたい安否情報として、まず同国人が事故・事件にかかわっているか否かということが大きなウエイトを持つ以上、そこに重点を持った報道がなされるのは当たり前だからです。また次に、日本人(もしくは知人、家族)が無事とわかったとき安堵するのは、自己本位と言えばそうですが自然な感情であり、さらにそれを喜ぶのはすぐに他の(国の)犠牲者に対して失礼だということに結びつかないと思えるようになったからです。


 そして、ことさら「ナショナリズム→自己中心的→汚いもの」とでもいうような言説が流れていたのは、時代の風潮であり、今から考えるとちょっと歪な理想主義だったような感があります。
 今回の人質事件でも、ごく自然に日本籍の子供たちの話が流れ、助かったと聞いたときにはよかったと思い、亡くなった子がいたと聞けば痛ましいと思いました。ここに何の問題もなかったと信じます。憎むべき短絡的な(金目当ての)犯行でした。その犯罪を憎む心にナショナリズム云々の遠い話はもう関係ないんだなと、ちょっとそういうことを考えたのでした。