えびす その来歴

 ヱビス信仰の成立と発展、そしてその変容には多分に混仰的なところがあると思われます。
 天照大神を祀る広田社の摂社、西宮の夷社は、もともと蛭子(ヒルコ)神と大国主命を祀るところでした。また同じく摂社の三郎社は、事代主命大国主命の子)を祀るものでした。室町期にこの二神、蛭子と事代主とが混同されて、夷三郎殿という一神として考えられるようになり、その後全国に広まったことが跡付けられています。
 出雲神話などの古伝承では、事代主は出雲の美保崎で魚を釣っていたとされています。それ故この神は、魚と釣竿を持った姿で描かれたのでしょう。これが後世のヱビスの神像の姿になったと考えられます。
 (蛭子と大国主の像が並置(並立)され、それが事代主と大国主の像だと取り違えられ、つまりそれが夷と大国主の像と思われたのだと考えられます。そして後に大国主大黒神との習合があり、恵比須大黒の二像の併置が一般化したのでしょう。また、ヱビス信仰の全国への伝播には夷舁や夷まわし、さらには修験者、山伏などの活動があったのでした。)


 以上が既成宗教の立場からの正当的な「いわれ」だと捉えられるでしょう。ですが、おそらくそれ以前にあって、これらの「いわれ」や一般的なヱビス信仰の成立に影響を与えたと考えたいのが、海人や漁民などの海を基盤として生活してきた人々の信仰です。西宮も海の近くであり、そうした海の民の影響は容易に想像されます。漁業神的ヱビス信仰では石を拾ってきてそれを御神体とする例が多く、福神的ヱビス像は関わっていません。そういうことからも、海の民のヱビス信仰が先行してあったと思われるのです。そしてまた、海上他界観は既成宗教としての神道の成立以前に遡行することができますから、すべてを記録された神話・伝承で説明するのは、むしろ行き過ぎなのではないでしょうか。