えびす ちょっと考察

 現在の福神としての恵比寿信仰の背後に確かに他界からの来訪神としてのヱビス像があり、それは様々な地方の信仰の中に残っていました。先に書きましたようにヱビスの原義には異民族の意があり、これらが異人・マレビトとしてのヱビス像につながっていく訳です。
 中心―周縁のパースペクティブから言えば、明らかにこれは周縁に位置するものです。また、ヱビスヒルコ神と結び付けられて考えられたように、ヱビスにはどうも不具性のイメージがつきまといます。いくつかの地方伝承に、「ヱビスは神無月にも村に残る。びっこが恥ずかしいので出雲に行けないからだ」というものがあるのですが、これらの地方(山間部に多い)の人々に、直接ヱビスヒルコの結びつきが知られていない以上、ヱビス自身にこの不具性のイメージがついていたと見るべきでしょう。
 そしてそのイメージはまさに、普通の身体=中心=多数者に対する異常なる身体=周縁の身体=少数者をシンボライズするのだと考えられるでしょう。


 さてこのようにヱビス神には福神という側面と、周縁性・境界性をもつヱビス像(マレビトとしてのヱビス)という両義性を持ちます。オットーが語るように、一方で「聖なるもの」としてあるものは、もう一方で「おそるべきもの」としての側面を持つということを想起するのは牽強付会でしょうか?


 また平安以前の古い記録にもあるのですが、日本には厄神(はやりやまいの神)・病害虫の神を歓待するという儀礼がありました。それらを忌避、あるいは降伏するのではなく、迎え、饗応し、送り出す儀礼を行うのです。また、疱瘡神が丁重な饗応を受けて、疱瘡よけの御守りを与えてくれるという形態の伝承も、意外に広範囲に存在します。これらの儀礼を解釈するにあたり、「災厄神の福神への転化」ということを考えてもよいのではないでしょうか?


 そしてなぜこのような禍福の転換が可能であったのか。私はそこに「来訪神」というものが持つ周縁性・境界性の意味が関わってくるのではないかと考えます。周縁においては、中心のように意味の固定化は強く働きません。何か曖昧な、秩序的なものを越えた領域がそこにあるのです。ヴィクター・ターナーがLiminalityに見た反構造性なども、そこに関わってくるのだと思われます。ヱビス信仰を捉えていく上で、このパースペクティブはどうしても必要となってくる感を持ちます。


 中心からはずれた周縁の領域を、非常に平板に差別され虐げられたものの場所であるとのみ考えるのは皮相な見方なのではないかと考えます。それはあまりに単純な構造*1で世界を捉える見方であり、被支配者の側にルサンチマンしか見ないような、階級闘争史観や抵抗史観に往々にしてつながる考え方ではないでしょうか。
 周縁の多義性は、より豊穣な世界に結びついていると思います。またそれを見落としては、なぜヱビス信仰がこのように多様な形態を持つのかすら説明することはできないでしょう。一つの世界においては、周縁すら大事な意味を持つダイナミックなシステムが存在していることに思いを巡らすべきなのです。
 周縁の存在が中心を維持することにつながりさえするような、そういう総合的な見方が、歴史や宗教を見る上で必要になってくるのだと私は考えています。

*1:支配者−被支配者のみで構成される力の構造