Mary of Light with Matins Processions

 昨日の事例とよく似た「光のマリア」が出てくるもの。ほぼ同時代、同じカスティリアの事例から…。

Santa Gadea (Burgos), 1399

 目撃者は羊飼いの息子、PedroとJuan。舞台はカスティリア、BurgosのSanta Gadea del Cidの街近く。1399年3月25日火曜日、PedroとJuanは羊を世話しているうちに蜜蜂の巣がある木を見つけた。その晩遅く、彼らは蜜と蝋を集めるためにその場所に戻り、そこで一人の輝く女性と行列を見た。白い服を着た人々が大きなサンザシの木の周りに集っていた。そしてその木の頂に、太陽よりも明るく光り輝く女性が一人立っていた。彼らはその光景を理解することができず、逃げ帰った。
 3月27日木曜、再びそこに行ったPedroだけがその女性(聖処女マリア)と再び出会う。彼女は前回のヴィジョンを解き明かし、彼に町のための「指示」を授ける。それは次のようなものであった。

 スペインの崩壊の日、Montanana la Yarmaという町があり、そこに私(マリア)の名で呼ばれる教会があった。異教徒たちの猛攻撃から、その共同墓地にその町の難民達はシェルターを使うことを余儀なくされていた。教会と共同墓地の中で彼らは敵に囲まれ銃火に包まれていた。そして彼らは改宗を肯んじなかったため全てが殉教することになり、輝ける殉教の血の中にすべてはまみれてしまった。(中略)この地が聖なる場であり、殉教によってここに死んでしまった遺体の多くの聖遺物がある場所であることを(街の皆に)説明することを命ずる。また、この秘密の記憶を再び呼び起こすために、聖ベネディクト修道会の修道院と教会が建てられるべきであるとするのが、我が栄光に満ちた息子の意志であるという事を告げることも命ずる。(中略)私のこのサンザシの木のもとへの顕現の記念に、私の顕現の記述を持つ者は誰でも悪魔の力から自由になるようにしよう。そして悪魔は私の紋章を見たときにその者を害することができないようになるのだ。

 だが怯えたPedroは、街の人たちにマリアのメッセージを伝えることはせずに黙っていた。


 そして3月30日日曜日、イースターの日*1の夜、Pedroの家にマリアが修道僧たちと現れ、彼女のメッセージを送らなかったとPedroを打ち倒した。
 Pedroの叫び声に近隣の者たちが目を覚まし、彼の家に駆けつけた。人びとが見たPedroの家は昼のように明るかったが、部屋に駆け上がったときはもとのように暗くなっていた。多くの鞭の痕をその体(ミミズばれと傷)と部屋の床に付け、Pedroはショック状態であったが、彼の親たちは何も知らなかった。


 Pedroは街の人々に集会を開催することを懇願し、そこで彼は自分の見た話を語った。数年後そのマリアが現れた場所に修道院が建てられた。そして特にその顕現の日を目指して巡礼達がやってきた。この顕現の最も古い現存の公式文書は1471年以降に作られたものである。

語られる意味

 初めに現れた白い服を着た人々は天国の天使達であり、太陽よりも明るく光り輝く女性は聖処女マリアだったと認められることになりました。でもここで目撃者の方に目を向けても面白いことがわかります。目撃者の名前が、昨日紹介したJaenのケースと同じなのです(こちらの事例が先行していますが)。
 そう、この話にはペテロ(Pedro)とヨハネ(Juan)が登場し、ちょうど(キリストの復活へ続く)聖なる週間がなぞられていると捉えることができるのです(→エピファニーの拒絶とそれに続く受容)。この種の変容させられた「まねび」は、多く初期の聖堂伝説に見出されるものです。


 スペイン中世のこうしたドラマの中心、発見される聖像のモティーフ等々は、キリストではなくマリアなのでした。(15世紀、西ヨーロッパから来る巡礼達にもマリア崇拝が生きていました)
 マリア自身が(そして彼女のみが)顕現するこの種の話は、聖書上のパターンのマリア化(the Marianization of biblical patterns)の一つの証拠だと筆者のWilliam Christian Jr.は言います。
 たとえば以前に日記に書いた西国三十三所の観音霊場を想起してください。あれは仏教の教説の観音化だと言えないでしょうか?(ほとんど女神として受け取られる)観世音菩薩(とそのエピソード)を通じて、多くの民衆が仏教を受容したことがあったのとこれはパラレルなものだと私は考えます。


 燃え上がる茂みとしてのサンザシの花(最も早く花咲く木)のシンボリズムと、マリアの顕現の中世的伝説のパターンとしての聖書の物語は隣国フランスで一般的であったものです。そしておそらくこの14世紀末以降、そのシンボリズムやマリアとの結びつきが、こうした顕現の話を通じてスペインにも受容されたと考えることもできるでしょう。
 またこの話の当時、この地は実際にイスラム勢力に脅かされてはいませんでしたが、人々は顕現の起きたような廃墟と化した教会などに潜む山賊に悩まされていました。また、現に疫病にも苦しんでいたのです。マリアの顕現はこれらの脅威に対抗する力への希求に向けられていました。サンザシは病を癒し、顕現のエピソードは人びとを悪魔から守るものとなったのです。


 さて、Montanana la Yarmaという村が果たしてムーア人に制圧されたか否かはわかりませんが、このような話はサンタ・グデアの人々に、明確に物理的・精神的に指示対象を持ったものだったと思われます。もし悪魔が敵としてのムーア人の表象だったとしたら、彼らは現実には遠く追いやられてしまっていました。しかし、ムーア人達は歴史的「他者」として残存していたのではないでしょうか?そしてそれはおそらく現実の敵と同様の意味を持ちます。なぜなら、1492年までカスティリア全土から周期的に人々は南へ戦いに駆り出されていたからです。またサンタ・グデアの町自身、カスティリアで最も有名な戦士の名を冠して呼ばれるようにもなっています。それはあのEl Cidだったのです。

おまけ

 マダム・ケイコ・Wのロンドン暮らしより「ムーア料理とは?」

 そもそもムーア人とは、8世紀初頭からイベリア半島を征服したイスラム教徒をさし、ムーア料理とは、その人たちが広めた、スペインから北アフリカあたりの料理だと思っていたのですが、なかなか歴史があるらしいのです。というのも、起源はペルシャ人たちの料理にさかのぼり、また、世界ではじめて果実園をつくりレモンやライムなどを本格的に栽培したのは、ムーア人だったとか。また、ほうれん草の発祥もこのあたり、とされているとは!?スパイスなども(想像ですが)中欧にくらべると太陽にめぐまれている為、沢山あったのではないでしょうか。(略)

 とてもおいしそうな料理が紹介されています。

*1:Easter: 復活祭。キリストの復活(Resurrection)を祝う日で、キリスト教国ではクリスマスに次ぐ重要な祭日。3月21日以降最初の満月の後の最初の日曜日