顕現の背景と守護聖人

uumin32005-07-07

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「顕現」と言われるものにはおよそ三通りのタイプがあります。
 最も正統的とされるものは、一人ないし数人の目撃者の前に神的存在が肉身で現れるというもので、その現れた存在が目撃者に語りかけ、触れ、ともに歩き、ときに証のものを残します。フランスのLourde(1858)やポルトガルFatima(1917)の顕現もそうしたものでした(参考)
 次に、諸感覚に別個に確かめられるサインが現れるものがあります。これは16〜18世紀のスペインに特に多いのですが、今世紀に入っても時々ニュースになります。これはたとえば雲に聖人達のグループが見られるとか何かに触られる、聞かれるなどのエピソードで語られるもので、聖像のすすり泣きが聞こえる、それが汗をかくなどというものもこのタイプに入ります。聖像が出血するという例はつい数日前にもテレビで話題になっていましたし(イタリア南部の村で「ピオ神父」の像が目や手から出血)、秋田県添川湯沢台の聖体奉仕会のマリア像は涙を流すことで知られています。
 そして最後に聖像や絵画が発見されるというタイプがあります。これは往々にしてサインを伴う証拠・証言者を含み、ちょうど日本の寺社の縁起によくある形と似たタイプと言えます。

カスティリアの顕現の背景

 ここで昨日、一昨日に記したカスティリアでの顕現の背景を考えてみましょう。


 8世紀、アフリカからのムスリム勢力は急速にイベリア半島を征服していきました。しかし侵攻が止められたところからその後700年にわたり、カスティリア、ナヴァール、アラゴンキリスト教諸王国は徐々に半島の支配権を回復していきました。そして1400年までにはグラナダ王国のみがムスリムの支配を受けるところまで回復していたのです。


 これらのキリスト教諸王国は力と富を12から13世紀にかけて蓄えましたが、王国自体は国の北部と中央を押さえたごく少数の貴族の家系に支配されていました。他の富と権威の中心はセゴビアのような諸都市にあり、その都市の支配権の下、無数のそれを取り巻く村々があるという形です。そこにはトレドのような豊かな教会基本財産を持った司教区もあり、ガダルーペのような広大な領地と多くの羊の群を持った修道院がいくつかありました。
 羊毛はカスティリアの主要な輸出品で、15世紀には全土に毛織物生産地が広がり、「顕現」が起こったどの町や村々にも羊、羊飼い、けば立て職人、機織りがいました。


 カスティリヤの居住地のタイプはほぼ現在の通り町や村の中心に家々が集まるもので、通常10軒から60軒程度の集落規模でしたが、ニューカスティリアの平野やタグス川の南ではやや大きく、時に500-1000名を抱えるちょっとした都市サイズの村々があったそうです。
 トレド、セゴビア、キュエンカなどは司教座の管区の中心で、数万の人口と産業を持つ中央カスティリアでの最大級の街でした。それらを取り巻く小さな村々の多くは、衣類の生産あるいは皮なめしや運送業に特化していたそうです。そしていくつかの地方の町は、法廷、役所、公文書保管所、そしてその地を治める一家が支える修道院を備えた封建領主のファミリーのための中心地となっていました。これら小さな商業中心地は、およそ1万前後の人口を持っていました。(16世紀はじめにいくつかの非正統的宗教が育ったのは、こうした類の小都市(エスカローナやパストラナ等々)で、そこには軍事拠点もありました)


 村々は普通教区と重なり合っていました。そのうちのいくつかには複数の僧職(clergy)がいて、その他の所は離れた町に住む司祭に名義だけ管理され、代理人が置かれていました。一般に北へ行くほど僧職者の人口比率が高かったそうです。
一般の信徒の宗教的実践は、William Christian Jr.によると次のようなものでした

 クゥインタナール・デ・ラ・オーデンの、けば立て職人の一人の妻の例からそれを見てみると次のようになる。彼女は天気や育児によほどのことがない限りミサに出席した。また、四旬節の半分の日々、ウェルギリウスの祭日、テンポラ(四季の始まり)の数日に断食した。彼女は告解し、年に一度は聖餐を受けた。そして三つの祈祷文をよくそらんじていた。アヴェ・マリアの祈り、主の祈り、彼女自身の就寝時の祈りである。

 当時のキリスト教界の他の地域と同じように、イベリア半島の村や町も彼らの特別の場所、時間、そして聖者とふれ合う特別の技術を持っていました。それぞれの村や町は常日頃助けを御願いする特定の幾人かの聖者を持っていたのです。
 この聖者の組合わせは、その地方の共同体の守護聖人と、専門にある御願いをかなえると広く信じられている聖者の組み合わせでした。しかしその(機能神的な)専門の聖者も、地域ごとに独特のパンテオンがあり、そこから選ばれていました。
 守護聖人の聖像や遺体、聖遺物は聖堂や教会、修道院に納められていましたが、地方の聖堂の設置場所にはある特色があったそうで、それらは聖なる泉のそば、古城の跡、廃墟になった町の聖堂教会、あるいは川の浅瀬などに特に多いのです。


 聖マリアは守護聖人として最も重要な存在で、ヨーロッパにおいては12-3世紀にその聖像の使用が拡がり、だんだん他の殉教者や隠者、聖なる司教の遺体、聖遺物のある癒しの大聖堂のなどのかつて持っていた人気を一人占めするようになっていきました。またそれに伴い、マリアの聖堂は大聖堂や修道院から地方の礼拝堂へと広がり、そこが宗教的祈りの実践の中心地となっていったのです。


 共同体がその聖者と会うのはほとんどが何らかの危機の時です。しかしその危機の時のつながりは、毎年の暦的信心・祈祷へとしばしば変容します。たとえば町が蝗の接近を怖れるとき、町の人がある聖者に祈り、その「しるし(験)」があったとされればその日が「その聖者の日」になるのです。そうした「聖者の日」には、町の行政によって通常は公会堂で厳粛に祈りが行われ、そしてしばしば公証人によって儀礼の記録が残されました。それによれば、聖者ための行進の行列に家人を出さなかった戸主、あるいは当日働いた者には具体的な罰が与えられています。村人達は教皇庁や教区から命じられた聖祝日に振り替えてでも、ともかくその日を遵守していたのだそうです。
 聖者と村の関係は、世俗の領主との契約と異なった明白で契約的な義務関係でした。人々は労働時間を犠牲にし、贈り物を贈ります。また食事に関する宗教的取り決め、聖人の日、聖人に助けられた日やウェルギリウスの祭日での断食や公的祭での食肉(caridades)がありました。


 「顕現」は新しい聖者をこのシステムに組み込んだり、あるいは古い聖者への信心が復活する一つの道でした。共同体のパンテオンは流動的だったのです。人々はある意味「試行錯誤」して信仰を変えていったようです。
 村人達にとって、共同体と聖者はお互いに意志を通じ合おうとするものでした。規則に従った祈願の組み合わせや、普通ではない出来事、時間と場所の油断のない観察で、村人は継続的に彼らの天上の擁護者を見分け、聖なる存在と彼らなりに接触したのです。実際、絶え間のない疫病や不作に苦しめられ続けていた共同体にとってこうしたことは死活問題だったと言えるでしょう。

Anthony of Padua, Navas de Zarzuela (Segovia), 1455

 Navas de Zarzuelaという町はNavas de San Antonioという名でも知られるように、昔から聖アントニオの信仰があり、その顕現した聖堂で有名です。聖アントニオが現れたのは1455年ですが、現在その地に立っている聖堂は16世紀に建てられたもので、町の人々の同志組合(brotherhood)によって今なお管理されています。

 この「顕現」は1455年8月4日金曜日に宣誓した証言として書き留められている。
 目撃者は、この町の市民であり布織り職人であるLuis Gonzalezの息子Juanである。ある日Juanは村の教会へ行き、一人の修道士に声をかけられた。その修道士の言葉は次のようなものであった
「坊やこちらへおいで。町の人々に、Segoviaへ行く街道がMonte de Sanchoと交差するyglesuelaに教会を建てるように言いなさい。」
 そして修道士はJuanの目の前から消えた。
 その後、同年同月の16日にまた修道士が現れ「教会と同志組合(brotherhood)を作るよう」に言った。さらに別の日、Juanが父親に言われてEnzinarの牧場へロバを連れていくときロバを見失い、それを探しているときにまた修道士が現れた。
 Juanは、今までも友人や父親にその事を言ってきたのだが、幻を見たとか嘘をついているとか言われ、誰も信じてくれないのだと言い訳をした。修道士は自分こそが聖アントニオであり、自分の教会を建て、同志組合を作るように重ねて要求した。
 Juanが父の所へ行きまた同じ話をすると今度は父親も信じてくれた。二人が町の人にこの話をしようとやってくるところで、彼らは一人の女房の埋葬を手伝うように言われる。そして彼らが十字架をもって葬列と合流した瞬間に、その女は生き返った。Juanの父はこの奇跡に際し、皆に聖アントニオの話をし、皆はこの奇跡による証を受け入れ、少年が示した聖アントニオの要求する地に教会を建てたのであった。



・聖アントニオの聖堂はスペイン各地にあるが、いずれも街道沿い、それも季節ごとの家畜(特に羊)の遊牧地の移動の際に通られる道のすぐそばにある。いくつかの場所で聖アントニオは動物の守護聖人として知られるが、これら諸聖堂も明らかに羊の(現在は乳牛の)守りとして、そして迷子の動物探しのためにある。


・Paduaの聖アントニオは通常ロバとともに描かれるが、これは秘蹟の際のキリストの臨在を信じなかった男が、自分のロバが聖アントニオに跪いたことによって回心したという話に基づく。このSegoviaの話でも少年が探していたのはロバだったのである。


・Guadalupeのマリアの伝説においても、この顕現の話と同じように埋葬のための葬列における蘇りというドラマティックな筋立てがある。