夢と運命4

 昨日までは古代ギリシアの夢見を概観し、そこに変えることのできない運命を知らせる「前兆夢」という夢の捉え方を見ました。また同時に、それとは異なる夢の受け止め方がアスクレピオス神に関わる治癒的夢籠りの場にあるのではないかと、それについてちょっと触れました。夢のテーマでひととおり述べてきた最後にその別の夢の捉え方について書きたいと思います。


 ここでまず、エピダウロスアスクレピオスの聖地)で発見された石盤に刻まれていた、いくつかの治療報告を見てみましょう。

 ある男が一匹の蛇によって指の治療を受けた。この男は足の指にひろがる悪性腫瘍のために体調がひどく悪かった。かれは日中、召使たちに外に運び出され、安楽椅子に坐っていた。かれが眠りに襲われると、一匹の蛇が聖域の一番奥の部屋から出てきて、舌でかれの指を治し、そのあとまたもとへ戻っていった。かれが目を覚まして元気になったとき、自分は幻を見た、ある姿の美しい若者に膏薬を指に塗ってもらう夢を見た、と語った。
(ケレーニー、pp.54-55)

 蛇はアスクレピオスの象徴でもありました。これは未だに(欧米の)医療機関や医学系の大学の紋章などで見ることができます。杖(これもアスクレピオスの象徴)に絡んだ蛇という図像も数多く残っています。

 「エピダウロスのパンパエス、口中の爛れた潰瘍」と、ある治療報告の表題は記されている。この男が聖域の一番奥の部屋で眠っていると、幻を見た。かれは神が自分の口を開け、両顎を楔で開いたままにしておき、口中をきれいにしてくれる夢を見た。するとそのあとでかれは治ってしまった。
(ケレーニー、p.56)


 さて、エピダウロスでの癒しの流れは、次の三つの段階において考えられます。まず一つは聖域に行く・儀礼によって身を清める・供物を捧げるという行為。次に宗教的ヴィジョンにおいてアスクレピオス神に触れられ、癒されるもの。そして最後にその体験が「正しい夢」であったか「招命を受けていた」かという事後解釈です。


 まず前段階の行為は「聖なる領域への存在論的移行」を可能にするという意味を持ちます。この行為ゆえに次の段階の体験が可能になるという面があるのです。(これを心理に還元すると奇跡を受け入れる心の状態をつくるという具合に言えますが、私はそれにとどまるものではないと思っています)
 第二のものはまさに直接的な力の体験だと考えられます。癒しを求める患者たちは通常の医薬による治療が不能とされていた者たちでありましたので、それまでの生き方の根本的な変化を迫られていたということができます。言い換えますと、彼らは世界観の崩壊−実存的な危機状況にあったと捉えることができるでしょう。そして彼らをそこから救済し、新たな人生を与えたのは、なによりもまずこの解釈以前の即時的で圧倒的な力の経験だったのです。この力の体験は人間を変容させ、殺し、再び生かす、すなわち宗教体験として受けとめられるものに他なりません。
 最後の段階は、アスクレピオスの癒しという解釈−意味全体の再生産がなされるところであり、この解釈こそが次の患者へ新たなる力の経験をさせる原動力ともなります。また、そこで「招命を得られなかった」という解釈すら実はこの信仰(物語)に人びとを巻き込むことになっているということを考えてみてください。
 エピダウロスの遺跡では、さまざまな奉納浮彫が、治療に立ちあう者たち、たとえば一般の手術にみられるような、ひたすら感嘆する家族や補助員たちを表現していましたが、これは、宗教的体験に即した内的過程を外からみえるように描いているものだったのです(ケレーニー、p.56)。ある意味この内的過程こそが力の体験そのものだともいえるでしょう。それは「現実」のものとして働く力なのです。


 医者―呪術師は多くのばあい同時に予言者でした。病気を追い払う場合には未来の予言がどこでも儀式の本質的な部分を占めていたからです(ニルソン、p.122)。この場合の未来の予言は、そのまま新たなる未来の創出と同義と言えるかもしれません。エピダウロスで行われていたことは、そういう未来の創出だったと私は考えています。そして世界観の再生によって癒された者にとっては、それは(夢による)運命の創造でもあるのです。
 私は、実際にエピダウロスで医学的な奇跡が起きて次々に患者が癒されたという事実があるとは思っておりません。しかしエピダウロスの奇跡譚が長く存在(影響)し続けたという事実の前に、何らかの奇跡は起きていたと考えてもいます。その奇跡とは、たとえば腕を無くした人の腕が生えてくるといった即物的な癒しではなく、腕を無くしたその人がその現実を受け止め、その後の人生を前向きに生きることができたという類の「奇跡」だったのではないかとも想像しています。
 これは昨日書いたエリュシオスのヴィジョンの帰結と同じベクトルのものだと思います。私には、何人ぐらいがプラセボ効果によって癒されていたかを考えるより、そこで着実に奇跡譚の再生産が行われていた=実際にある種の癒しが与えられていた、と考えてその意味を考察していく方が実りあることに思えるのです。


 啓蒙主義的な研究態度から、何らかのトリックを使ったのではないかと低く見られていた古代ギリシアの夢見の癒しは、見方を変えれば、宿命論的夢見と双璧ともなるもう一つの夢の受け止め方だったのです。アスクレピオスに関して、この神は病気を拭い去ると言われますが、また同時に彼は「慈愛の手」で触れることで人びとに癒しの力を注ぎこむとも言われています(ニルソン、p.79)。運命を創り出す夢が見られるという意味で、後者の呼び方が成立したのではないかと私は考えています。


 こうした運命を開く形で人びとに影響する夢を私は(仮に)「告知夢」と呼びたいと思っています*1。告知夢は宗教体験です。もちろんそこに深浅の差はあるでしょうが、その夢自体が契機となって大なり小なり生き方に変容を与えるものとして(言い換えるならばその運命を変更するものとして)存在する夢は確かにあると言えます。


 「夢が超自然的存在・超自然的世界との通路であった」という括りを取ったとしても、私にはそれぞれの夢の体験が均一にあったとは思えません。ここまでの古代ギリシアの夢の受け止め方の概観においても、人びとの夢の受けとり方、ひいては聖性との関わり方の態度に少なくとも二つのもの、前兆夢と告知夢という二通りのベクトルがあったと見えるのです。
 前兆夢は運命を知らせるものです。そして告知夢は運命を開くものです。二つの夢の受けとり方を考えることで、かつての夢経験の理解へ何らかの新たな方向性がでないものか、私はそう考えています。

参考文献

・K・ケレーニー『医神アスクレピオス』、松籟社。
・M・P・ニルソン、『ギリシア宗教史』、小山他訳、創文社、1992。

*1:もしかしたらネーミングが悪いのか、なかなかこのアイディアを他の方にわかってもらえないところがありますので、今は「仮に」としておきます